黒潮ロマン <12> (17) 統 和歌山

 昭和51年(1976)5月23日(日曜日) 読売新聞

  皇位継承 骨肉の争い

  有間皇子らがクーデター

  日本書記によると、斉明天皇四年(658)天皇が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・のちの天智天皇)と紀の温泉に遊んだとき、留守を預かっていた蘇我赤兄(そがのあかえ)が失政を指摘、皇子は「吾が年始めて兵を用うべき時なり」と決意。 赤兄と謀議を開いた11月5日夜、裏切った赤兄の軍隊に奇襲され、捕らえられた。9日には側近の塩屋連○魚(しおやのむらじこのしろ)、新田部連米麻呂(にいたべのむらじこめまろ)らと紀の湯に連行され、直ちに裁判が開かれ、三人は11日、藤白坂(海南市)で国襲(くにそ)の手で絞殺された。ときに皇子は19歳(一説には18歳)の若さだった。

磐 代(いわしろ)の 浜松が枝(え)を

  引き結び 真幸(まさき)くあらば

  また還り見む

家にあれば 笥(け)に盛る飯(いい)を

  草枕 旅にしあれば

  椎の葉に盛る

 皇子が護送される途中よんだ磐 代は、紀勢線岩代駅から国道42号線を1キロほど北へ行った南部町西岩代といわれ、地元の人らが植えついできた「結び松」があって、県指定の史跡になっている。

 有間皇子がクーデター計画は、天皇の温泉旅行に乗じて滞在先の居所を焼き、五百人の兵が牟婁津に攻め込む。同時に水軍の別動隊が紀伊水道を封鎖、海上へ逃げる天皇軍を討つという「牟婁津包囲作戦」だが、この計画は実は天皇と中大兄皇子の体制派が仕組んだというのが定説だ。

 中大兄皇子は孝徳天皇(645-654)の妹、斉明天皇の長男。大化改新(645)の成功させた立役者で斉明ー藤原鎌足を結ぶ大化改新派の中心だ。一方の有間皇子は孝徳帝の長男で中大兄の従弟。孝徳ー○魚(このしろ)を結ぶ反改新勢力のシンボル的存在である。共に皇位継承資格を持つライバルの暗闘は、孝徳帝在命中から火花を散らしていた。

 「事件が起って六日目に処刑が終わっている。大和で起きた事件を遠い牟婁の地で処理する手際があまりにもあざやか。よほど綿密な台本があったに違いない」と、この事件を研究している南部高校の鈴木宗朔教諭は謀略説を主張「ねらんは○魚(このしろ)の処刑にあったのでは」という。そして○魚(このしろ)は日高北部の当時貴重だった塩や海産物中心の経済力と、水軍をバックにした豪族でだったと推定する。つまり○魚(このしろ)の水軍を取り上げることにあったというわけである。

 なぜ水軍 が必要だったのか。当時の社会情勢は多難だった。内政では体制批判が高まり、外交では新羅(しらぎ)との関係が風雲急を告げていた。○魚(このしろ)は朝鮮系の紀氏の流をくみ、古く雄略、継体期に「日鷹吉士(ひだかきし)」「難波日鷹吉士」の名で、朝鮮外交や水軍で活躍する職能集団だったと書記に見えている。

 

○魚(このしろ)軍団の乗っ取り策

 鈴木教諭は「○魚(このしろ)は孝徳帝に重要されていた。継体期を最後に書記から姿を消す日鷹吉士は、その後難波の安倍海軍に組織されて勢力を温存してきた」と考える。日鷹は日高に通じ、安倍海軍の日高海兵団として生きの残った○魚(このしろ)軍団は、中大兄陣営の最大の脅威だったのだろう。鈴木教諭は「朝鮮戦争には水軍がいるが、○魚(このしろ)は反体制派の中心で政府のいうことを聞きそうにない。事件は○魚(このしろ)の乗っ取りと批判勢力一掃を一挙に実現する一石二鳥をねらったもので、大化改新を成功させた政治闘争のベテラン中大兄皇子らしい巧妙なやり方だ」という。

 そこで天皇の温泉だが、斉明三年九月、牟婁の温泉から帰った有間皇子から「風光明媚なところで、病気も自然に治るほどです」とすすめられたのがきっかけだった。翌年五月、最愛の孫建王(たけるのみこ)が八歳で病死。悲しみに包まれた天皇は十月、牟婁の温湯に向われ、途中「愛しき吾が若き子を置きてか行かむ」と建王をしのび、側近に「この歌を世に忘らしむな」と命じている。

 

天皇湯治は粛清の口実

 これが書記などに書かれた天皇の湯治行きの理由だが、改新後の政情不安を考えると、ことさら、”皇子のすすめで傷心の身をいやしに行く”と強調しているのは不自然な気もする。謀略説をとると天皇はどうしても事件当時、牟婁に滞在「反乱軍の奇襲を受ける可能性が十分ある」という状況をつくりあげることが必要だった。こうみてくると、天皇の温泉旅行は有間皇子を中心とする反体制派を葬るカモフラージュで、血の粛清を世間に納得させるための大義名分に利用したといえないだろうか。

 事件の約二年後、斉明天皇は自ら水軍を率いて朝鮮にへ船出する。日高の若い水兵が故郷の山々に別れを惜しんでよんだ歌が多く語り伝えられている。

 

秋津野に政府軍の基地?

 ところで牟婁津包囲作戦だが「この作戦は体制側のでっちあげ説が有力で、天皇側からの情報に基づいているだけに、状況設定は正確だ」と指摘するのは、上富田町の郷土史家玉置善春さん。作戦内容からみて、反乱軍は、第一に陸海軍共同作戦が可能な勢力だ。牟婁津を田辺、白浜周辺と仮定すると、ほぼ一昼夜で戦闘可能な陸上部隊を送り込めるとこるに基地がなくてはならない。鈴木教諭は「行軍。兵站(へいたん)能力からみて反乱軍の進発基地は○魚(このしろ)軍団の本拠地日高地方だ。海上封鎖に最適なことからみて御坊湾ー由良湾の間だろう」と推理する。

 迎える政府軍は「牟婁津」に陣を構え、直ちに淡路へ避難できる地の利と、水軍を備えていた。奇襲部隊に対抗する陸上兵力も当然あったと考えられる。ではこの。”牟婁津”とはどこにあったのか。玉置さんは「古代の津は河口や上流に発達した港町を指す。古代、天皇の旅行の例からみて、牟婁津には非戦闘員を含めて千人近い人が滞在していたとみてよい。食糧や宿舎など、これだけの人数を支える生産能力と政治性を考えると、大化改新以前から朝廷と友好的で、近くに古代寺院跡が残る会津川上流の田辺市下秋津付近しか考えられない」という。この辺りは古くから秋津野と呼ばれてきた。「事件を処理する司法、行政面からみて、やはり牟婁郷の中心秋津野に滞在したのでは」と、白浜の行宮滞在説には否定的だ。

 

額田王らの歌の舞台に

 その秋津野は会津川を約二キロ北東にさか上ったところにある小さな盆地。ミカン畑と水田がのどかに広がっている。玉置さんは「有間皇子が殺される前年に遊んだり、天皇軍が二か月も安全に駐とんできた点から牟婁の地は朝廷直轄地だったのでは、記録にはないが、古い海部屯倉(あまみやけ)と考えられぬことはない」との見方をとっている。幼い日、有間皇子は秋津野を駆けめぐったかも知れない。中大兄皇子の尋問に「天と赤兄知る。吾全(もは)ら解らず(全く知らない)」と無罪を叫ぶ皇子。この裁判を目撃したに違いない同行の才媛(さいえん)額田王(ぬかたのおおきみ)らの万葉歌人が秋津野を舞台に、花や雲に寄せる歌、都をしのぶ恋の歌を歌いあげているのが、かえって事件の凄惨(せいさん)さを感じさせる。

 現在、三重県も含め紀伊半島のほぼ半分を占める牟婁地方は、大化改新以前は田辺市と富田川流域の一部に過ぎなかった。ムロの意味について、韓国出身の作家金達寿氏は「魏志・東夷伝」に出てくる「咨離牟○国(しりむろこく)」「牟○卑離国(むろひりこく)」の”牟○”や”牟羅”はムラ、村をさし、人々の集落の意味だという。玉置さんは「秋津野に近い下三栖に法隆寺様式のがらんを持つ白鳳期の三栖廃寺がある。ここから帰化人の栄えた土地の寺院跡にしか出土例のない石製相輪(塔の頂上の飾り)が出ているのは興味深い。朝廷が秋津野の屯倉開発に帰化系技術者を投入したのではないか」といっている。彼らが自分達の集落を”ムラ”と呼び、これが牟婁になったのだろうか。

 有間皇子の事件に重要な役割を演じた牟婁の湯は、その後都でさらに有名になった。事件後二十七年たった天武十四年四月、紀伊国司は朝廷に大変なニュースを伝えている。温泉が止まったというのである。前年の十月十四日、大地震が中国・四国地方を襲い。伊予(愛媛県)の温泉が止まり、土佐の国(高知県)の田畑が海に沈む被害があった。この地震のようである。

 「崎の湯」は湯崎温泉街に面した漁港南端にある自然の岩ぶろだ。二つあっていずれも二十人ぐらい入れる広さである。すぐそばまで打ち寄せる波がしぶきを上げ、晴れた日は四国の山が見える。上手の方は町営公衆浴場「崎の湯」で、財政難のため四月から大人五十円の料金をとっているが、いその方のは十五年前に干上がったままだ。

 歴史を秘めたせっかくの名湯も華やかなホテル、旅館に隠れて存在を知る観光客は少ない。管理人の川口伊平さんは「入浴してくれるのは一日平均百人前後。それも地元のひとが多いようです」とさびしそうだ。

 この「崎の湯」の湯が止まり、近くの泉源から”もらい湯”していることは余り知られていない。作業員の落としたハンマーが泉源の穴をふさいだ”人災”が原因とか。高層ホテルが林立し、緑が姿を消す白浜。牟婁のいで湯の情緒が時代と共に薄れていくようでわびしい。

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 注、○は旧字で文字がありません。