宮城道雄詩碑

 いでゆの匂ひ

 ほのぼのと もとおり来る鉛山の

 これの小径いくめぐり

 今、平草原に我はたゝずむ

 かぐわしき黒潮のいぶき

 妙なるはまゆふの花の香り

 うずいして一握りの砂を掌にすくへば

 想ひは

 かの千畳敷、三段壁

 果ては水や空なる 微芒の彼方に連なる

 あゝ とこ春の美わしき楽土よ

 時に虚空にありて

 耳あきらかに鳶の笛すむ

 あさもよし紀の国の白良の浜やこれ。(柿谷華王子書)     

平草原山頂にあり

(裏)昭和三十一年六月四日 明光バス株式会社

 附記 生きた文化財、芸術員会員人間国宝とたゝえられた琴の名手宮城先生は神戸生まれ、九才で失明、二代中島険校に学ぶ。洋楽の様式をとり入れた独奏曲、重奏曲、管絃曲等を作曲、名作として春の海、秋の調べ、落葉の踊等がある。

 この詩碑の除幕式当日、見えぬ眼に喜びをたゝえて碑面を手さぐりされたが、それから二十日の後、昭和三十一年六月二十四日、惜しくも東海道線夜の急行銀河から墜死の奇禍に遭われた。

観光会館での演奏会席上、琴の糸が二度までも切れた事と思い合わせて、巨匠が一生一作のこの詩碑には感慨深いものがある。

 昭和三十五年七月二十五日、宮城先生の門下岡崎市の高瀬忠三氏が、遥々とこの詩碑を訪ねて来泉されその探訪記が「宮城会々報」第五九号に載っているその中に次の様な一節がある。

「先生のご生前に、あまりにも身近かに接することのできた私どもは、かえって先生の偉大さを知る事が出来なかったのではあるまいか……。

 詩碑の前に立ち、ご生前のあれこれ思い浮かべ、偉大な先生、殊に自然をあいされた先生の尊さに、あらためて触れさせていたゞいた喜びに心からの感動を覚えるのだった」   戦後日記

 建立 昭和31年6月
 宮城
道雄
 琴の名手・芸術員会員人間国宝
 1894年〜1956年 
(明治26〜昭和31年)

宮城道雄詩碑の経過説明

詩碑の除幕式は、昭和31年6月3日と宮城会で記録されている。

 (裏)の附記は、昭和31年6月4日と記録されている。

 この写真(昭和43年12月18日)の除幕式は、宮城道雄詩碑 の除幕式ではなく、除幕式当日に訪れて、「見えぬ眼に喜びをたゝえて碑面を手さぐりされた(後文略)」様子を建立された宮城道雄先生銅像除幕式の写真です。

 尚、現在の宮城道雄詩碑は、平成12年(2000)年6月1日紀州博物館開館によるものである。

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