二、むろの湯 |
海あれて潮のうちこむ日のあらむ崎の磐湯に小屋かこひあり 天然の岩にしたLみひたる湯にとどろきふるふ荒磯のなみ 崎の湯のわがまへの磯に浪をあぐる太平洋の空はてしなし 滑らなる岩はだに触りて吾がひたる御湯(みゆ)は古りにし玉湯とぞおもふ 白浜に憲吉が心ひかれたのは、一つはこの「古りにし玉湯」であったはずである。湯にひたりながらいにしえ女帝が群臣を従えてはるばるこの湯に来られた日を想う。 海きよく磐湯は霊(く)しくもいにしへに櫛とり浴みし臣(おみ)をとめども とほつ世の女帝(をみなみかど)をなぐさめし紀伊の行幸はこの湯にありき この湯は『日本書紀』にみえる古い湯である。しかも海岸で岩の聞から湧き出で、眼前は大洋という風光もまた珍しい。 崎の湯に建つ案内板には、「当時の湯は、飛鳥奈良朝の昔、斉明、天智、持統、文武四帝の行幸を仰ぎ沐浴をたまわ った最古の温泉として日本書紀、続日本紀にも記録され、『紀ノ温湯』『武漏ノ温泉』「牟婁の温湯』として知られている云々」とある。が、その辺をもう少しつけ加えておきたい。 斉明三年(六五七)九月、「有間皇子、性點(さと)し。陽(いつわ)り狂(たぶ)れて云々」とあって、治療のため、むろの湯にゆき、効いちじるしく回復したとして、やがて帰京し帝に言上した。有間皇子にとっては、孝徳帝の一子で世継ぎの資格のある自分と、皇太子中大兄皇子との関係の危ないことを知っての逃避であったろう。有間はまた自分の継母、 間人皇女(斉明帝の娘)と中大兄皇子との間のうわさをも知っていたからである。 斉明四年(六五八)五月、斉明帝の皇孫健王が八歳で没した。女帝の「傷み慟(まど)ひたまふこと極めて甚(にへさ)たり」とあり、また自分の死後「必ずわが陵に合せ葬れ」とも言われた。書紀はそうして帝の挽歌三首を録し、「天皇、時時に唱ひたまひて悲 哭す」としるす。その悲傷が余り長く、健康をも害したかもしれない。まわりのすすめもあり、有間皇子の言もふっと思い出されたのであろう。 暖い紀の国のむろの湯へ行かれたのは「冬十月十五日」であった。この時の随行は中皇命(中大兄皇子)額田王等である。 白浜の白良浜の北端に突き出た権現岬は、熊野三所神社があり、こんもりとよく茂った丘があるが、ここを昔、御船山といったようである。現在の地図には記録されていない。伝えられるところでは斉明帝が着かれた場所という。そうすると行幸は和歌の浦あたりから海路白浜へ来られたのかもしれない。憲苦の歌にあるが、 椎楠のくらき岬山に雨のごと鳥ぞ騒げりかしこき船山 いにしへの声おこらむか百どりを踏みおこしゆくくらき忌森に 斉明帝は白浜の湯を喜びたまい、そのままここでゆっくり年を越される予定であった。ところが十一月三日、有間皇子は蘇我赤兄の術中に陥ち、謀反の謀事ありとして逮捕され天皇のもとへ送られてくる。陸行であったことは、磐代での歌でわかる。九日、崎の湯の行宮での審問は天皇でなく、中大兄皇子であった。もともと指令が中大兄から出て、赤 兄が躍ったのだとすれば、どのような答弁も聞き入れられるはずがなかった。再び.飛鳥へ送られる途中、藤白坂で刑死したのは広く知られている通りである。十一月十日のこと であった。 静養中の天皇にこの件が直ちに報告されたとは思えない。しかし天皇はやがて事件を知らなければならなかった。もはやゆったり静養する気分もそこなわれたであろう。年がおしつまってあわただしく出発したと思われる。天皇が飛鳥に帰られたのは年が明けて正月三日であった。 中大兄皇子がむろの湯に行ったのは、この時だけで、天智帝としては行幸がない。次の天武帝もない。持 統帝の四年(六九〇)九月二十日紀伊国行幸、二十四日還幸とあるが、日数からいって、むろの湯までは難しい。さらに次の文武帝 五年、大宝元年(七〇一)、持続帝は太上天皇として文武帝との行幸で、九月十八日、十月八日、むろの湯着、十月十九日に帰京されている。なお、奈良期に入って聖武帝の神亀元年(七二四)十月五日より二十三日にわたり紀伊行幸があるが、随行の赤人、金村の歌から見て和歌の浦までである。なお天平神護元年(七六五)称徳帝の紀伊行幸がある。万葉の歌もないので、はっきれしないが、やはり和歌の浦行宮までであろう。 そうするとやはり町の案内板にあったように、斉明、天智、持続、文武の四帝ということになるが、このうち女帝が二度というのも想像に色どりが増す。 が、その案内板に「当時の湯」というのはどういうことか。つまりは現在の湯と違うということになる。「当時の湯」、つまり昔のままの湯は天田愚庵の描写では左の如くである。 「崎の湯は縦四間、幅三間半(ほぼ八メートル×七メートル弱)、大岩深く窪みて、薬師仏の形を成し御頭に当れる所より湯泉湧き出づ。元より人口(人工の誤)ならねば深浅も一様ならず、巌滑らかにして湯潤く、いと心地よし」とある。 もともと古い温泉はほとんど磯辺で、風波の日は潮が打ちこみ、入ることができなかったという。そのうちでも、このむろの湯、現在の崎の湯は突き出した岬の磯にあり、それだ け眺望もよいが、風浪を浴びた。昔は知らず、写真では明治期の粗末な小屋、大正期の瓦を葺いた小屋、昭和九年建築の鎌倉様観音堂形式のものと推移しているので、台風には弱かったことがわかる。 これが戦後民間の手にわたり三十八年コンクリート二階建の上屋が作られた。自然の湯壷にも手を加え、男女にわけ、 縁に段を作ったりしたため、薬師像の形というイメージも損われた。さらに湯量を増すべく、ポーリングしたところ、突然、湧出が止った。史跡となるべき由緒ある名湯はこうして亡んだ。五十六年、コンクリートの家屋は解休され町営となって、よしず張りの露天風呂となっている。湯は御幸 湯からの貰い湯で、古来の湯とは関係がなくなってしまった。よって案内板に「当時の湯は」とことわり書きがしてあるのである。 なお、この湯の背後の崖の上は、御幸の芝と呼ばれる地があり、泉水もあったという。が、これも近年、この湯に隣接し、崖縁に大きなホテルが建てられ、三段壁、また白浜空港へ通ずる有料道路の上り口として、この御幸の芝の台地は削られてしまった。こうして四帝滞在の行宮址と伝えられる場所もまた失われたのである。 白浜はこのように最も観光の目玉となるべき史蹟を自ら破壊してしまったことになる。今年(昭和六十一年五月)崎の 湯の入口に大きなコンクリート門柱を建てたが、意味のないことである。 玉井源治氏はこうした町の史的文化的な認識の低さを常々なげいて居られるが、憲吉の歩いた白 良浜とて、心配のないわけではないらしい。白い浜の採取は禁じられているのが唯一の措置とはいえ、浜に進出しようとする企業の動きは油断ならない。私も見たが、いま海中にプロッタを沈める船がせっせと働いている。潮の流れをとどめて、砂浜を増やす計画という。うまくゆけばよいが、自然に対し下手に手を加えると、古来の名湯を失った如くまた失敗するのではないか。砂もたまるかもしれないが、ゴ ミもヘドロもたまるに違いないと、玉井氏は案ずるのである。 白浜は古来、多くの詩歌文芸に登場するが、歌のいくつかをあげておくと、 雪の色におなじ白良の浜千鳥こえさへさゆる曙の空 寂念法師 誰にかは見きと語らん玉給ふ白良わたりの秋の夜の月 鴨長明 浪よする白良の浜のからす貝ひろひやすくもおもほゆるかな 西行 はなれたる白良の浜の沖の石をくだかで洗ふ月の白浪 西行 近くでは川田順、原阿佐緒、五島美代子、北原白秋、岡山厳などの作品がある。が、質量とも憲吉に及ばないだろう。 湯の湧ける磯の岩間はぬくむらむ冬の真なかのこほろぎのこゑ 道したに波のしぶくぞしたしけれセキレイのとぶ赤岩のむれ 潮気立つ白良の浜の朝日かげ若湯を浴みに浜ゆく我れは 海のべの初日に染みてつま子らと幸はふ命我れはねがはむ 冬ながらくまなく明き海のいろ瀬戸崎の浜にはま木ふ綿を掘る こうした歌、また「紀湯日記」はかつて白浜を伝える大事な作品にもなっている。さて古来白浜でほ七湯というのが広く知られた湯であったが、大正七、八牢頃から我れも我もと掘り始め、陸上のみならず海中へもボーリングした。その結果、古来の七湯で湧出がストツブしたものもあり、ポーリングも次第に深くしなければならなくなった。乱掘の結果、付近の井戸が枯渇した例も多く、戦時中、掘削は下火になったとはいえ、その後はホテルラッシュからも心配されている。 さて、そうして失われた七湯をしのぶ記念碑が、これも玉井氏の尽力で、昭和六十年四月十一日、湯の崎トンネルの出口の近くに建てられた。碑は湯崎会館前庭にある。 碑は那智石。明治期の七湯図が彫ってある。右から崎の湯、屋形湯、阿波湯、疝気湯、元の湯、浜の湯、砿湯。そして図の右に活字体で茂吉の歌が彫ってある。 ふる国の磯のいで湯にたづさはり夏の日の海に落ちゆくを見つ 茂吉 憲吉の亡くなった年、昭和九年七月、斎藤茂吉は土屋文明と熊野路越えをし、十九日白浜に着き、白浜館に一泊した。 歌は文明と二人で、崎の湯に入った時のものである。ほかに、なお一首ある。 横ぐもをすでにとほりてゆらゆらに平たくなりぬ海の入日は 茂吉と文明は裸のまま並んで岩に坐り、日が没するのをじっと見詰めていたという。 |
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