祇 南海と太刀谷(立ヶ谷)

 はじ゜めに

 祇 南海の鉛山記行をタイプし終えて、興味をもちました。

 下記が太刀谷(立ヶ谷)部分の原文 の抜粋と大体の意味です。

 祇 南海の鉛山記行文の内、太刀谷(立ヶ谷)の抜粋 享保十八(1733)年四月十九日

  (前文略)有太刀谷天狗洞之名、山行三四里、即達田辺、恨余力倦不能深究、洞中有寄居虫石、或生石上、或在石中、形色一与寄居虫無異、但粗大耳、推之堅如鋼鉄、抑亦石経久化虫者乎、将虫変成石乎、造物之不可知可固如斯也、山有水晶石牡丹石蓍木苣、蘅鏡乳赭石之類、往々産篶、木葉上亦多甘露、若淹留曰久、霊草可得、蓋自古求道者多矣、平日恨名山之遠及一得人、亦只托俗累未謝耳、暛呼若尚子平陶隠居実鮮矣、(後文略)

<現代文にした大体の意味>

  (前文略)、ここは太刀谷天狗洞という。山を三四里行けば、田辺に着くというが、余の力はすでに倦れて深究でないのが恨めしい。

 洞中には「寄居虫石」がある。

 石上に生えたり、石中にあったりする。

 形や色は「寄居虫」(ヤドカリ)と全く同じで、ただ大きいだけである。

 之を推してみると堅いこと鋼鉄のようだ。

 思うに、石は久しき年をへて、虫に変化したのか、また、虫が変化して石となったのか。

 大自然の妙は、全くわからないのはこのようなものだ。

 山には水晶石、牡丹石、蓍木苣(めどきぐさ)等がある。

 蘅鏡乳、赭石の類が時々出る。木の葉の上に亦た甘露多い。

 久しく留まっていたい気持ちがする。

 霊草も採れる。

 思うに昔から求道者は多いが、普段は名山が遠いのを恨むが一度その山に入ると、ただ、世のしがらみに心を寄せてそれを感謝しない。

 鳴呼、尚子平・陶隠居のような隠遁者は実に少ないものであるよ。

(後文略)

注、蓍木苣 めどくぐさ。この草は茎を占いに用いる。
注、蘅鏡乳 天狗洞の天井からの鏡乳

注、赭石 赤鉄礦、砕いて顔料にする。

注、甘露 天下太平の印に降るという甘い露。

注、尚子平 息子の嫁が亡くなっても家事もしなかったという故事を残した隠居者。

参考文献

 講読郷土詩 白浜編 千葉宏太郎編 平成14年11月吉日
 白浜温泉史 昭和36年4月5日発行
 南紀雑筆 椿の葉巻 著者雑賀貞次郎 昭和13年5月19日 

 「太刀谷天狗洞」と「寄居虫」(ヤドカリ)、探検開始。

  参考文献  日本釈名(1699)中・介類「寄居虫」(かみな)(略)其形かにの如くにして、みなのからの内にやどる物也云」(略)俗に、がうなともやどかり共云」。

 2004/10/29日下調べ。

 午前7時30分頃、何時もの喫茶店で、立ヶ谷の人に「天狗洞」の位置について確認し、午前8時30分頃、履きなれた何時もの「セッタ」で、立ヶ谷奥(現在は忘れられているが、この道を通って瀬戸や鉛山に至った。現在に云う国道です。)に着き、天狗洞の位置を確認するために墓地より遠望する天狗洞を眺め、写真撮影したのが次の写真(写真−)です。

 道路のどの位置から登れば「天狗洞」まで、一番近いかを確認して、写真で見える「天狗洞」まで約10分位で到着した。

 アチラ、コチラ写真撮影し、特に洞の中を撮影(写真−2)して、

<上の写真の拡大(写真−3)>

下山にかかると、小さな洞があり、すぐ下にも一番大きないと思われる洞があった。これらの洞の中も撮影して下山した。

 帰宅後は、「ヤドカリ」石がいないかと写真を拡大したりなど、繰返している内に、小さな穴が多くあることに気づいた。

 この穴に「ヤドカリ」石があったのではないか、と、思うようになった。

 2004年10月30日午前7時35分頃、何時もの喫茶店に立ヶ谷の人来る。一番上の写真を見せて場所の確認をとる。間違いなく「天狗洞」と云う。

 8時40分頃、天候が気になるが、再度の本格調査したのが下の4点の写真です。

<(写真−4、01〜04)>

 まだまだ、このようなのが大小多くありましたが、これだけ撮影した。

 まとめ

 岩の成立ちは、私には解りません。

 上の拡大写真(写真−3)の穴の中に10月30日撮影したような石が入っていて、「ヤドカリ」に似た形と色をし た石が数多く詰まっていて、大変綺麗であったのだ、と、思いました。

 この記行から約270年の歳月で、あるものは「ヤドカリ」の色も形も風化して変形し、あるものは落下して、その穴だけが残っているのだと思いました。

 納得できたでしょうか。

 それにしても、約270年前は静かで隠居してもよい場所だったのですね。

 私、立ヶ谷については、古い記録がなくて探していました、この記行文から当時の立ヶ谷の様子が少し想像することができました。

 それにしても、藪蚊の多かったのには、閉口した。

  2004/11/01追加

 立ヶ谷の人々によって、この場所が天狗洞又は天狗岩であることの確認を再度した。しかし、ヤドカリに似た小石があったとの確認ができない、確認は不可能と思うが、祇園南海 の鉛山記行の中の立ヶ谷地区記述の最初に「太刀谷天狗洞」と記述されていることから、瀬戸鉛山村では、これが祇園南海 の鉛山記行の天狗洞であったら、よく知られた有名な場所であったと思われる。

 但し、原文中から、深い穴を想像させられる。調査した天狗洞と祇園南海の鉛山記行の天狗洞は別の可能性が あると思われる。

 2004/11/03追加

 調査にも時が流れすぎて、証拠だてることが不可能であることが判明した。

 確たる証拠はないが、私が撮影した以外に別に天狗洞と云われる場所があったのかも知れない。しかし、これも長い時を過ぎて、証拠だてることも不可能であります。

 私、一番可能性があり、地元の人が、天狗洞又は天狗岩と呼ばれている洞の一番下の大きな洞が、今となっては洞中に「ヤドカリ」に似た石があったと思われる。

 何れも、そんなに奥行きのない洞です。

 2004/11/16追加

 冬が近づいて来たような寒さを感じながら、何時もの観光ルート(臨海周り)を、何時もの単車で走っていて気がついた。

 「こんな所にー」、何時も通っているのに海などばかり見て、立ヶ谷天狗洞に似た洞があった。ここに洞があったことは知っていたが、立ヶ谷天狗洞を見ていないと、似ているとは気がつかなかった。どちらが似たのかは別にして、同じような洞である。

 よく見てから、デジカメを取りに帰り、撮影したのが下の二枚です。

 瀬戸・馬目谷公園=>ナガバ=>円月島前の洞の外観(写真−5) Photo/2004-11-16

 瀬戸・馬目谷公園=>ナガバ=>円月島前の洞の内観(写真−6) Photo/2004-11-16

 立ヶ谷の天狗洞と呼ばれた状態は、こんなのではなかったかと思われる。但し、砂岩の中の一つ一つの小石は「ヤドカリ」に似ていたのでしょう。

 今から約270年前に祇園南海が立ヶ谷天狗洞で見たのは、上記の洞(写真−5)に比べて小規模ながら、このようなものであったと想像させられる。

 注、同じような洞は、番所山海岸に多く見ることができる。 但し、立ヶ谷の天狗洞は、いつの時代に造られたかは不明ですが、陸路の要であった道の上にある祇園南海も見た歴史のある洞である。

 余禄、天狗洞山頂より寒さ浦を望む Photo/2004-10-30

 余談、昭和の年代であれば、証拠だてられたかも知れない。

 少し、熱を入れ過ぎて調査などしたりしましたが、何れ発見されることを期待したい。