湯崎五景詩について

 @はじめに

 祇南海の「鉛山七境詩」に、「湯崎五景詩」が加わり有名な南紀白浜の「十二境詩」となります。ここでも、御舟山、円月島、三段壁はよく解りますが、望洋阜と衝幹松は探検 して推測が必要となりました。

 前の鉛山七境詩は歩いたコースが簡単に推定できますが、この詩は「バラバラ」になっているので歩いたコースの推定が難しい。@御舟山A円月島 、ここから戻ってB三段壁、ここから戻ってC望洋草D衝幹松、又は別ルートも考えられます。

 A参考文献

 御舟山

 円月島

 三段壁

 以上省略

 青山背海遠人家、双屐躋驚踏落花、樵径杳深幽草合、松陵翠秀淡煙遮、

 潮頭斜日千帆雨、鴎外残春半浦霞、極目裕然天盡處、長鯨噴波度雲涯。 望洋阜

 碧雲一族影圑楽、露滴石華長不乾、風勢入枝驚鶴夢、涛声動地起龍涯、

 豈無羽客採霊薬、更有君王停御鑒、欲撫孤根尋往事、梅楼吹笛夕陽寒。 衝幹松

 注、漢字がないため、全体の感じから「裕」とした。

 B推測

 望洋阜(ぼうようおか)と読むのでしょうね。衝幹松は「つくもとまつ」と読みます。

 この二つの区域は走り湯から湯崎のトンネルまでの間だと推定します。

 先ず、望洋阜の「青山背海遠人家」は青い山を後ろに海があって遠くに人家が見えると解釈すると、湯崎方面を眺めたのだと思います。白濱及び瀬戸地区は青い山を後ろにしてと云うより、林の中に人家だと思います。すると二ヶ所想像できます。

 一ヶ所は湯崎のトンネルの上、もう一つは現在のラフォーレの所、又は山楽荘の横と推測します。 明治から昭和の初期の白良浜の写真を想像するとラフォーレの所が有力です。

 また、「双屐躋驚踏落花」とは、下駄(双屐)で登(躋)る、何かに驚き花を踏むで、「松陵翠秀淡煙遮」は立派な松林の陵(かど)で、薄い煙を遮(さえぎ)っだと思うと、遠くから湯崎を眺めたと思われ、「極目裕然天盡處」は境目が広く、高くで、「長鯨噴波度雲涯」は鯨とあり、人家の後ろに湯崎が見えて、海も眺めた所が、望洋阜となります。

 次に、衝幹松を「つくもとまつ」と読むと衝幹湯があった所で、難なく解決できます。

 Cまとめ

 少し余談をします。

 瀬戸、丸公園、寺谷川から走り湯、衝幹湯、まぶ湯です。

 「まだ寺谷川の先から衝幹湯までの海岸道路が出来ていないときは、瀬戸からまぶ湯に入浴するのに、潮が満潮時は寺谷川の先から現在の三楽荘の前を通ってまぶ湯え、潮が干潮時は寺谷川の先から現在の望洋閣まで海岸を走ってまぶ湯え」と 故宮崎伊佐朗先生から話をよく聞きました。話の度に「で、走り湯ですか」と私が云うと、そうだとは云わなかったが、ニコニコしていた姿を思い出します。

 余談の話変わって

 上記の「長鯨噴波度雲涯」と鉛山七境詩の「長鯨莫相饒」と長鯨が二度も出てきます。

 昔は鯨が鉛山湾でよく見かけられたのでしょうかね。

 二度も余談をしました。

 これ、まとめるのは、大変なのです、と云うのは、写真撮影が非常に難しい、でも探検隊は、但し一人で恐れず実行し ようと思ったが、ラフォーレに行くのに知人を無理矢理連行したが写真撮影は出来ませんでした。

 ほぼ、衝幹松は確定だと思いますが、望洋阜は、二ヶ所程度この所とは想像できますが、ほぼ確定とまでもに至りませんでした。

 努力を認めて参照を見てお願いします。ご意見、提案等、メールお願いします。


上の地図でまとめを参照して下さい。

赤丸文字はリンクしています。但し、Aは建物の影で何も見えませんでしたのでリンクしていません。。