南紀白浜・碑歩行記

 はじめに

 この日は五月晴に恵まれ、ウォ−キングにはもってこいの一日でした。午後1時半、三段壁を皮切りに臨海めざして歩き始め、穏やかな気候の中で今まで見ることのなかった意外な白浜を発見すること になりました。

PM13時30分

 三段壁周辺

 三段壁は白浜名所の1つ。商店街を抜けるとはるか四国の剣山を垣間見る絶壁に到ります。そこは展望台になっていて、目前には黒潮流れる太平洋が広がっています。「ホー」とため息が出そうなほど爽快な気持ちになりました。勇壮な自然の姿に心躍る反面、この場所から身を投じる人も稀にあります。穏やかな陽光に包まれた三段壁と、厳しい風雨にさらされた三段壁は人生の浮き沈みを象徴しているかのように全く異なった趣を見せているような気がします。

  四国三十三ヶ所地蔵

 そんな三段壁で最初に出合うのが、四国三十三ヶ所地蔵です。この地蔵は文殊温泉(昭和初期)に向かう道筋に点々と並んでいました。四国霊場めぐりを1度に済ませてしまう非常に便利な地蔵さんだったようです。

 三段壁の地名は全国的にも知られていますが、古くは「見段」と呼ばれ、この海域に毎年押し寄せる「鰡(ボラ)」を監視する場所だったといいます。高見と呼ばれる場所から海を眺め、一体どれくらいの群れが押し寄せたのか想像してみました。

 きっと私が思っているよりはるかに規模の大きな群れが押し寄せたのだと思うとその群れの姿を見てみたい衝動に駆られました。

  延命自蔵

 この高見の近くに延命自蔵が建っています。三段壁は身を投じる場所として知られ、多くの人がここで命を断ちました。その魂を鎮める意味も込めて昭和13年に建立されたと記されています。

  口紅の遺書詩

 「死んで花実が咲くものか、そう思ってしまうのが常」ところが、この三段壁には身を投じる直前、口紅で最後の心情を詠った碑がありました。「口紅の遺書詩」です。若い男女が身を投じた場所のすぐ後ろにあり、その生々しさが伝わってくるようです。

 昭和26年(1951)兄弟の許されぬ恋と、病苦から身を投じた若い二人。彼らが覚悟し身を投じた場所に立って見ると、はかなくも悲しい思いで胸が詰まって来るようです。口紅で書きつけられた文字は、風雨によって消え去るのを惜しむかのように、誰かが岩に刻み込み現在にまで残されたのです。

  鍋井画伯の讃碑

 展望台周辺にはもう一つ鍋井画伯の讃碑がありました。大阪の下町を描き続けた画家として知られる鍋井画伯は、明光バス社長の小竹林二氏の招聘で邸宅内にアトリエを設け白浜の風向を独特のタッチで表現しました。この讃碑は天王寺駅に紀南を紹介する絵が完成したのを機に昭和38年(1963)に建てられました。

PM13時50分
 展望台周辺の碑を巡って半田台と呼ばれる平らな岩場にやって来ました。今回のウォーキングでこの場所が一番印象に残りました。荒涼とした岩場が続くこの場所は、気候が穏やかだったので新鮮な感覚で観ることが出来ました。ほのぼのとした今日のような気候であればいいのですが、寒風吹きすさぶ冬の日には近寄りたくない場所です。

 この岩場の下には鯨が潮を吹くように、打ち寄せた波が舞い上がる「潮吹」と呼ばれる岩場があります。続いて「潮吹きの谷」の入り江になり、そこから「じょうもんの鼻」と呼ぶ岬になり、「大崎」へと続きます。

 「大崎」に来ると「橋立開門」が良く見えてきます。展望台から「じょうもんの鼻」へ、そして「大崎」にかけての風景が今まで見たことの無かった白浜の姿で感動しました。
 白浜といえば白良浜のイメージが強く穏やかな海を思い浮かべてしまうのですが、荒々しい海の姿に新鮮な感覚を覚えました。中でも特徴のある岩場が「エブタ」「タビノソコ」「タビノハナ」「オキク」と事細かに名前が付いていて、昔の人は感性が豊かでユーモアに溢れた人たちだったのが分かります。そんなことを思いながら「ホンマブの谷」にやって来ました。

PM14時25分

 ホテル千畳前にやって来ました。「本鉱(ホンマブ)の谷」はホテル千畳下にある入り江。
 昭和10年(1935)この入り江に大露天風呂が造られ賑わったようですが、今はその面影もありません。戦争中は「本鉱(ホンマブ)の谷」から遠く四国にまで海底ケーブルが敷かれ、海軍の秘密の監視所が紀伊水道を行き交う船舶や潜水艦を調べていたといいます。

 更に古く400年ほど前は鉛が掘られていたといい、「本鉱(ホンマブ)の谷」の名前もそのことに由来するともいわれています。また道から少し下ったホテルの駐車場脇には、洞窟があり、鉱山跡とも思える横穴が確認できますが、現在はゴミ捨て場となって確かなことは分かりません。近いうちに中に入って様子を見たいと思っています。

PM14時40分

 千畳敷

  芝雲岩・龍口巌・ユビナガ蝙蝠

 千畳敷にやってくると多くの観光客で賑わっていました。その名の通り畳千畳も敷けようかという広い海岸には雲を思わせる芝雲岩、竜が口を開いた姿の龍口巌やくつ島など古くより呼び名の付いた奇岩が見られます。またこの千畳敷周辺の洞窟には天然記念物の 「ニホンユビナガ蝙蝠」が繁殖しています。

PM15時00分

 湯崎海岸

  行幸芝の碑

 行幸の芝にやって来ました。今から1300年余り昔のこと、斉明天皇を皮切に天智、持統、文武の4人の天皇が相次いでこの白浜に来ました。

 当時牟婁の湯と呼ばれた湯崎の温泉で保養したのです。天皇の行幸、いかほどの人が付いて来たのでしょうか、詳細は分かりません。おそらく何百人かの一行がこの地に留まったのでしょう。彼らの滞在する館のあった場所が「行幸の芝の碑」として残っています。
 今でも百人二百人の団体客を受け入れるとなればテンヤワンヤの大騒ぎですから、当時天皇一行を迎え入れるのは相当な苦労だったと思われます。

 牟婁の湯を特に歴史の中で有名にしたのが有間皇子事件でした。日本書紀の中で紹介されたこの事件は大化の改心後、斉明天皇が中大兄皇子と共にこの地を訪ね、温泉で保養をしていました。天皇が不在の奈良の都で有馬皇子がクーデタを企てたというのが事件の発端になっています。

 その内容については様々な学説がありますが、未然に捕えられ有馬皇子はこの牟婁の湯に連行されました。有 間皇子はこの牟婁の地で裁判を受け帰路に就きますが、藤白坂(海南市)で処刑され若い命を亡くしました。

 その連行の途中に詠まれた歌が「万葉集」の中にも遺され悲運の皇子として知られています。
 「有間皇子の碑」が白良浜に建立されていますが、場所としては湯崎の「行幸の芝」あたりがベストではないでしょうか。

PM15時25分

  崎の湯

 湯崎温泉の歴史に思いを馳せながら歩いて「崎の湯」にやってきました。

 湯崎温泉の西端にある「崎の湯」は、かつて湯崎七湯と言われた外湯の中で、ただひとつ昔のままで残っている浴場です。斉明女帝も皇太子中大兄もこの湯船に入ったかと思うと、万葉の時代もつい先日のことのように思われます。

 「崎の湯」は、白浜温泉の歴史的名湯として自慢できる場所です。

 今回、面白かったのは崎の湯の天狗穴伝説でした。

 天狗穴の伝説はまた詳しく調べて見ます。

  虚子の句碑

 明治から昭和にかけて活躍した俳人高浜虚子(たかはま きょし)の碑があります。昭和26年(1951)和歌山県観光連盟が建立したもので、虚子は昭和8年(1933)熊野を巡る旅の帰路に白浜に立ち寄り一泊しました。

  真白良媛(ましらひめ)像銘

 湯崎温泉街で一番人目を引くのが真白良媛(ましらひめ)像銘です。裸身の美女が、白浜の海にのみ産する本覚寺ヒガイを抱いてもの悲しく佇んでいます。謀反の罪に問われ処刑された有馬皇子をいつまでも待ち続けた悲恋の女性として建立されましたが、史実に基づかない空想の女性です。

 作り話もここまで徹底すれば納得する人もいるかもしれませんね。三段壁洞窟が熊野水軍の隠れ家だったという伝説と同様に、多くの文化人が白浜を離れていったのが分かるような気がします。

PM15時40分

  湯崎温泉碑

 「湯崎温泉碑」は紀州藩儒臣仁井田好古が古の斉明天皇を始め天智、持統、文武の歴代天皇がこの地を訪れた事を紹介し、温泉の効用等を紹介しています。最初湯崎金徳寺に建立されましたが、後に浜の湯、トンネル入口川口屋前と湯崎の発展に翻弄されるように場所を変えました。建立から既に 130年余り、傷みが著しくなったことから現在は山神社境内に移され、新しい湯崎温泉碑が昭和38年鉱湯源泉前に建立されました。印象的なのは碑文の最後に仁井田好古言った言葉です。

 私が命を受けてこの地を巡った際、村長某氏が来て言うには我が村の温泉を賞してくれたのは遠い昔の人、どうか其の事を記して、この地に来湯する者の考慮の一如になるようお願いしたいと。

 そこで此の事を書して石に刻んだ。
 それから140年余り、現在の白浜を訪れる多くの観光客を見えると考えさせられることが沢山有るような気がします。

 湯崎の海岸を歩きながら、昔の湯元を確かめてみました。船着場のすぐ横にあった「浜の湯」は現在の駐在所あたり、「屋形湯」は湯崎館横の路地を上がったところ、古い写真を見ながら歩けばもっと面白いかもしれません。

 特に昭和10(1935)年に開通した湯崎トンネルは、後の変化に大きく関係した事から短いトンネルではあるけれどもしみじみと見とれてしまいました。

PM16時00分

 白良浜

 白良浜はやはり美しい。浜の松林に入って浜沿いを歩くとそこは碑文街道となります。三所神社に至るまで別名「文学の道」とも呼べるほど白良浜を賛美する詩にふれる事ができます。順に追って賛美の詩を見ることにしました。

  有間王子の碑

  松尾塊亭の歌碑

   目に立つや白良の濱の烏二羽

  西行法師 歌碑

   なみよする白良の浜の烏貝 拾い易くもおもゆるかな

  寂然法師

   ゆきの色におなじ しららの浜千鳥 こゑさえさゆる明ぼの空

  楠本憲吉 歌碑

   紀の国のいでゆの浜 児をつれ来 花すみれ摘むも 冬と思はば

  其桃句碑

   陽炎や後ろ山まで砂白き 其桃翁

  
 残念ながら私の知っている人物は一人もいませんでした。
 白良浜は古くは「銀砂(ぎんさ)」と呼ばれるほど、白い砂が銀の様にキラキラと輝いていたといいます。そんな砂が山のように積んであったのですから、その美しさに訪れる人は魅了 されたのでしょう。

 それほどまで輝いたのは寺谷川の奥、現在の役場辺りには水晶が多くありました。その水晶が砂になって白良浜の砂を輝かせたのではないかといわれます。

 周辺の開発によって砂の供給が止まり、外国から砂を買い入れているのが現状です。 
 今も昔もその砂の美しさに気付かず、明治21年から大正12年の34年間ガラスの原料として積み出されていたのです。大正8年に近代的な観光開発を目的とした白良浜土地建物株式会社を創立した小竹岩楠氏は、防災と風致保伝のため積み出しを禁止に尽力したのでした。

PM16時35分

 三所神社

  斉明天皇遺跡碑

 658年斉明天皇はこの地を訪ね数十日にわたって滞在しました。そのことは、日本書記等の古書によって明らかにされています。

 火雨塚古墳(ひさめづかこふん)

 古墳時代後期に造られた火雨塚古墳も遺されています。直径8m・高さ2mの円墳で、盗掘されているので出土品は少なかったといいます。
 現在は入り口の横穴が見え、あまり気持ちのいいものではありませんでした。

 三所神社には斉明天皇が座ったという石があるそうです。それから昭和天皇が乗った御座船も置いていました。

  三浪の句碑

 境内にはもう一つ、瀬戸出身の俳人岡本藤左ヱ門の碑があります。

   桃の花 古里なれば 裏も行く

PM16時45分

 瀬戸海岸

 三所神社を抜け瀬戸の海岸に出てきました。

 そこは、斎明天皇が船を着け降り立った事から「御船の谷」と呼ばれています。

 三所神社がある所を御船山とよび天皇家に縁の深い場所となっています。

  御船の谷の搭 御幸之史跡碑

 往古 はじめ緒帝の臨幸あり、この地に御船を着けさせ給ひしにより御船山御船の谷と称せらる。

  瀬戸の泥岩岩脈(でいがんがんみゃく)

 瀬戸の海岸に広がる泥岩岩脈は昭和4年(1929)の昭和天皇御幸のおり進言され、昭和6年(1931)国の天然記念物に指定されました。

 新世代第三紀中新生(1500年前)に形成された地層に、その後の地殻変造によって地中から水と一緒に噴出した泥が上を覆っていた砂岩と泥岩の互層の割れ目を貫いて固結してできた水成岩脈です。直立した水成岩脈のようすは、海食崖面によく見ることができます。

 また海食台上では侵食されてかまぼこ形となった、水成岩脈の灰色の露頭を見ることができます。岩脈はその幅数10mmから数メートルのものまで、海食台上での長さは数十メートルにおよぶものもあります。

 田辺湾の東南部から白浜半島にかけて数十ヶ所、袋から椿にかけて数ヶ所あり、これらのうち白浜町権現崎・古賀浦・畠島の泥岩岩脈が国の天然記念物に指定されています。

 海食--海流や波などにより海岸や海底がけずりとられること。

 崖面--海食でできた「か゜け」    「広辞苑より」

 瀬戸の海岸を歩きながら、昭和4年の天皇御幸を思い出しました。瀬戸の海岸に突貫工事で造られた「御成り道路」は現在の歩道位だったといいます。

 6月1日といえば丁度今の時期、しとしと雨が降る中、この海岸に「むしろ」を敷き正座して天皇を迎える写真があったことを思い出しました。

 「えらい場所に座って居たんだなあ」と思っていると水面をボラが飛び跳ねました。この辺はボラが多いのかなと思って三段壁に押し寄せるボラの大群に思いが馳せました。

  棒杭

 歩道に棒杭がありました。棒杭は海中に建てられた船を止めるための杭で昔は沢山あったそうです。今でも瀬戸の海岸で見ることが出来ます。

 瀬戸で立ち寄りたい場所が「貝寺」です。紀州徳川家と関わりの深い寺で三葵の紋が使われています。詳しいことは和尚さんに説明してもらうのが一番です。

  青々の句碑

   貝を見て あとは桔梗を 眺めけり

  瀬戸の歌碑

 牟婁の浦の瀬戸の崎なる 鳴島の磯越す浪に濡れにけるかも

 建立 昭和63年(1983)6月 白浜町町長片田良穂

 瀬戸の漁港に建つこの碑文は、万葉集に詠われたものですが、歌に詠まれる瀬戸の地が白浜町の瀬戸なのかは様々な説があります。

 そのため、歌碑の建立には慎重論もありました。

 一般的に「瀬戸」とは潮流の速い海峡のことで、この地名は日本津々浦々にあります。「牟婁の浦」は兵庫県揖保(いぼ)郡御津(みつ)町の室津港、「鳴島」はその対岸にあたる金ヶ崎にもっとも近い君島のこととされています。

 また、「瀬戸」というのも、金ヶ崎と君島を今でも「金崎の瀬戸」、「君島の瀬戸」と呼んでいることから、このあたりのことだとされています。

 しかし、歌碑が建っているのは和歌山県白浜町の瀬戸である。(中略)。この歌が白浜町の瀬戸で詠まれたものでないとしてーーーー。

  河野一郎先生頌徳の碑

 国道開通の恩人河野一郎先生の徳を讃えて昭和41年(1966)9月吉日に白浜町有志一同によって建てられた。書は山口喜久一郎氏
 
PM17時20分

 臨海
 やっと臨海にたどり着きました。 夕暮れ時に円月島を眺めながら京都大学臨海研究所にやって着ました。
 歩きながら気がついたのですが円月島の前には棒杭が立っているのですね。
 今まで知りませんでした。
 京都大学臨海研究所の古い門が印象的でした。
  昭和4年(1929)、昭和天皇がこの門から入って行く写真を思い出しながら歩いて見ました。臨海には番所山、御幸関係の碑文が沢山ありますが、今回はここで終ります。
  次回は臨海周辺を散策してみたいと思います。

  平成17年6月4日に臨海周辺を散策した。

PM13時30分

 臨海

 京都大学臨海研究所前にやって着ました。
 京都大学臨海研究所の古い門は白浜の一時代を象徴するものです。ゴミと雑草に隠れ全く見向きもされない姿が寂しいですね。

 昭和4年、昭和天皇がこの門から入って行く写真を思い出しながら歩いて見ました。臨海には番所山、御幸関係の碑文がたくさんあって色んなお話が出てきそうです。

 水族館は京都大学の水産研究所として大正11年に建設されました。当時としては珍しかった水槽が備えられた最先端の研究所で、生物学者でもあった昭和天皇がこの研究所を訪れたのが昭和4年6月1日のことでした。

 このことは実に、奈良時代の斉明、天智、持統、文武の4人の天皇から1300年余りの時を経てこの白浜に天皇を迎えたことになったのです。

 万葉の時代、奈良の都から多くの人が白浜を訪れたように、昭和天皇を迎えたことにより白浜の観光開発は大きく発展したのです。

 水族館が建つ場所は、紀州藩初代藩主徳川頼宣の別邸が建てられた場所です。その別邸で使われた井戸址が、水族館前の駐車場にあり、地元では「殿さま井戸」と呼ばれています。

 水族館の後ろにある小高い山には海上を見張る番所が設けられたことから「番所山」と呼ばれています。

 紀伊水道に面した紀州藩にとって、沿海の警備は重要で、加太戌崎、岡田倉崎、雑賀崎、毛見崎、犬崎(左記海草郡)、宮崎の鼻(有田郡)、白崎、日の御碕(日高郡)、瀬戸崎、朝来帰番所崎、潮岬(西牟婁郡)その他に遠見番所を設けて警備にあたりました。

 中でもここ瀬戸崎の番所は紀州藩の直轄地であったことや対岸の天神崎にあった遠見番所を特にここに移し、初代藩主頼宣公が別館を建て来遊したことからも、この地域が重要であったことが分かります。

 もう一つ、瀬戸崎の番所が他と異なっているのは、他の番所のように地士や庄屋等その土地に住む住民に見張らせたのではなく、田辺在住の与力に見張らせたのです。

 それほど重要視したのは鉛を産出する「鉛山鉱山」があったからではないかと考えられています。

 このように古い歴史を持つ臨海一帯も、戦後以降の近代化の中で大きく様変わりしてきました。そんな事を考えながら歩いて見ることにしましょう。

  臨幸記念碑

 水族館の門を入って少し行くと「臨幸記念碑」があります。

 昭和4年6月1日、京都大学臨海研究所を訪れた昭和天皇は、四双島、塔島、畠島付近で海産物を採集して、神島で南方熊楠の案内を受けました。

 わずか一日の滞在でしたが昭和天皇の行幸は後の白浜に大きな影響を与えたのでした。

 この碑は昭和天皇が訪れたのを記念して翌昭和5(1930)年に京都大学が建立したものです。

 水族館の前には「崎の浜」があります。現在はグラスボート乗り場になって気楽に臨海の海底散歩を楽しむことができます。昭和天皇は、この先の浜から御座船に乗り四双島、塔島、畠島をめぐって神島に向かいました。

 その時のエピソードにこんな話が残っています。

 昭和天皇を乗せた御座船は崎の浜を出て四双島に向かうのですが、御座船を操縦していた地元青年団員は天皇にどうしても見せたいものがありました。それは大正11年白良浜から9m余りの高さに噴出した銀砂湯の姿でした。

 青年団では、天皇行幸にあわせ銀砂湯を汲み上げるモーターを従来の1馬力から倍の2馬力に替え空高く噴出させました。

 しかし、通常のコースを行くと御座船は白良浜の前を通ることはなく、銀砂湯の大噴出を見るには大きくコースを変えなければなりません。意を決した青年団員は「今日は風が強いので少し遠回りになります。」といって白良浜前に船を進めたといいます。

 昭和天皇が銀砂湯の大噴出を見たかどうかは分かりません。しかし、新しい白浜の象徴を見てもらいたいという意気込みは充分伝わってくる話です。その時の御座船は三所神社に納められています。

 ここ番所山の海岸には、海軍が彫ったトンネルとは別にもう一つ穴があります。
 明治20年3月夜半のこと、ニ本マストで2000トン級のロシア船「カムチャッカ号」が四双島に座礁してしまいました。

 巨船「カムチャッカ号」は船底に穴があき、自力での脱出をあきらめ解体することになりました。

 6月大潮の満潮時を待って、四双島から番所崎の井戸の谷まで曳航してきたのです。そこで大きな木材を組み立てて起重機を造り解体に取り掛かりました。

 半年近くかかって作業は終るのですが、その間「カムチャカ号」を控える綱を通したのがこの穴になります。

 「カムチャカ号」の座礁にも面白いエピソードがありました。この船には絹糸や綿糸、砂糖などが積んでありました。

 その多くが海岸に流れ着いていたそうです。中でも砂糖は、当時貴重なものだったらしく、瀬戸の人達は海岸に流れ着いた砂糖を家に持ち帰って隠したといいます。

 ところが、後になって警察が調べに来たから「さあ大変」とばかり、便所の中へほりこんだり、隠したり、又、警察も浜に棒を差し込んで砂糖を探したりで大騒ぎになったといいます。

14時00分

 番所山

 「崎の浜」を過ぎて「番所山」にやってきました。
 江戸時代から海上警備の拠点だったここ「番所山」は太平洋戦争時も海上警備の拠点として使われました。

 海軍防備隊70名が京大臨海実験所に駐屯し、岩石をくりぬいて陣地を構築し、砲台を築いていました。

 一方、千畳敷の南の岩場に駐屯していた海軍特殊部隊(兵員50名)は、はるか四国の沖合いにまでケーブル線を沈め、紀伊水道を通過する艦船のスクリュー音を探知していました。

 沖を通る米軍戦艦の発見が主な目的で、江戸時代の遠見番所と同じ役目をしていたのですから面白い話ですね。

14時20分

  番所旧蹟碑 

 番所山の南方記念館に向かいます。
 番所山の急な坂道をエッサホッサ登って行くと「番所旧蹟碑」があります。番所山のほぼ中央の平地に建てられた番所は風雨が強かったため軒が低く、戸や窓は二重に作られた頑丈な建物でした。

 中に入ってすわると船室に居るようだったといい、番所とはいえ牢屋の様な建物でした。後ろの山に狼煙場がありましたが、現在は「南方記念館」が建っています。碑の回りに散在している瓦の欠片は番所に使われていたものです。

 番所は明治2年に封鎖されました。

  南方記念館建設碑

 昭和40年和歌山が生んだ世界的な学者「南方熊楠」の業績を未来に遺すために「南方記念館」が建設されました。

 南方熊楠は慶応3年、和歌山城下に生まれました。少年時代は、学校にも行かず、山に入っては植物の採集に没頭していたと言います。

 また、近所の家で書物を借覧し、漢文で綴られた当時の百科事典の写本を作り上げる等、神童ぶりを発揮しました。

 和歌山中学校卒業後、上京した熊楠は20歳でアメリカに渡り動植物の調査・研究に没頭しました。

 その後26歳でロンドンに渡った熊楠は発表した研究論文が認められて、大英博物館の嘱託職員に迎えられました。大英博物館では、読書と筆写に明け暮れ34歳で帰国しました。

 和歌山に帰った熊楠は、植物の宝庫である熊野の山々を巡っては調査を続けました。
 37歳の時、田辺に南方植物研究所を設置し、中国建国の父・孫文や民俗学者・柳田国男など世界の諸学者と交流しつつ、博物学・民俗学をはじめとして、あらゆる分野にわたって研究を行い、新種の粘菌を発見するなど世界的な業績を挙げました。

 また、昭和天皇が神島にお越しになった際、粘菌の標本をキャラメルの箱に入れて御進献したことは、飾り気のない熊楠らしいエピソードとして知られています。

 中央学会から離れて活動していたため、奇人学者として取り上げられことの多かった熊楠ですが、近年になってその業績が認められるようになりました。

  天皇陛下御製の碑

 太平洋戦争が終わり、昭和37(1962)年に再びこの地を訪れた昭和天皇は、今は亡き熊楠を想い起し追悼の歌を詠み、その歌が碑文として建立されました。

  三等三角点

 ここでもう一つ番所山にある「三等三角点」についてお話しましょう。三角点とは、三角測量を行う時に地表に埋定された基準点のことをいいます。

 経度・緯度の基準になるのが「三角点標石」で、高さの基準になるのが「水準点標石」です。これらは山頂や見晴らしの良い所に埋められており、重要さや基本的性質から一等から四等までの4種類に区別されています。

 「三等三角点」は全国に32,699個あります。

 三角測量は、明治4年工部省測量司が東京に13点の三角点を設置したことに始まります。

 その後、明治17年からは陸軍省参謀本部測量局がこの測量を引き継ぎ、大正2年にはひととおりの観測が終了しました。

 繰り返し測量が実施されて現在に至っています。ただし、近年はGPSなどの測量技術が進歩し三角測量はほとんどされなくなっているそうです。

 三角測量についてはこんなエピソードがあります。

 明治年間に日本の山のほとんどが陸地測量隊によって初登頂がなされました。

 最後に残った山が北アルプスにある「剱(つるぎ)岳」で、あまりにも困難であったことから、弘法大師がワラジ3000足を使っても登れなかったという伝説がありました。

 その最後の山に日本山岳会が初登頂をすることになりました。そこで山岳会より先に測量隊の旗を立てなければ陸地測量部の恥であるということから、剱岳登頂を命じられた柴崎測量官が未踏の山「剱岳」に挑戦をすることになりました。

 いくどもの挫折を乗り越え、決死の覚悟でやっと剱岳に初登頂したら、そこにはすでに奈良朝時代の修験者が持ち歩く杖の頭と剣があったといいます。

 日本の宗教登山の歴史を垣間見た遺物だった・・・・
 新田次郎著:剱岳(点の記)より(富山県中新川郡上市町)
14時50分

 番所の先、番所山灯台の所に来ました。

 この灯台は昭和30(1955)年2月15日に開設されました。灯台から更に先に進んで崖っぷちまで行くと、目の前に広がる風景はいつも目にする白浜の写真とは全く違う光景でした。

 ここから見ると対面に見えるのは千畳敷で、白良浜は奥の方に少し見える程度でした。

 眼下には広がる岩場は「あわ湊」と呼ばれています。言い伝えによると、「阿波の鳴戸ふさがれば此の島の道あき、鳴戸あけば此の島道ふさがる」と言われているのですが、潮の満ち引きに関係あるのかは分かりません。

 少し沖に「五郎が島」と呼ばれる島があります。むかし五郎と言う子供が此の島で海苔を取っていました。夢中になっている間に、潮が満ち帰れなくなりました。

 あたりも暗くなり一人残された五郎は悲しくなって泣いていたといいます。

 その時、烏2羽が五郎の傍にやってきて泣きじゃくる五郎の傍を離れることなく夜を明かしました。

 翌日、五郎は村の人に助けられ、無事に家に帰ることができたといいます。村の人は氏神が烏に化けて五郎を救ってくれたといい、それ以来、この島は「五郎が島」と呼ばれるようになりました。

 そして沖合いに四双島が見えます。あそこに「カムチャッカ号」が座礁していたのかと思うと現場を見た人は相当驚いたと思います。

 それに流れ着いた砂糖を持って帰った瀬戸の人達が、後で警察が調べに来くるや便所に隠すやら、大騒ぎしたのも生々しくて可笑しくなります。

 まとめ

 三段壁を出発して臨海の「番所の鼻」の崎に立って思いました。やっぱり白浜は美しい所です。自分の足で歩いて1000年余りの時を実感することは思った以上に素晴らしい体験でした。            15時20分 終了

 白浜碑文街道記を一日で歩いたとして、その所要時間を下記にまとめた。

 但し、食事時間は含まれていません。

  三段壁周辺

 出発

  AM 9時30分

 千畳敷

  AM 10時25分

 湯崎海岸

  AM 10時40分

 白良浜

  AM 11時50分

 三所神社

  PM 13時50分

 瀬戸海岸

  PM 13時50分

 臨海

  PM 14時35分

 番所山

  PM 15時10分

 終了

  PM 16時00分

 合計所要時間 約6時間30分

 最後に再度正確を期すために歩き写真や所要時間などと共に掲載します。

 今回は私の勉強のための碑歩行記の初版です。

 碑歩行記の完版までには5回歩く計画です。

 2005/06/24 玉田伝一郎記

 参考文献 KITOHAN WEB