瀬戸青年会報 1936-9 第13号 創刊30周年記念号 番所の鼻 岬順吉  参照

<>は瀬戸崎番所の話、雑賀素甕 昭和11年11月11日 参照

<>紀州藩の海防について 大原満 参照

  その名称の示す通り、(略)、国禁を破って外洋から熊野灘を渡って大阪や兵庫の港に侵入しょうとする黒船を見張った所なのである。

 <寛永20(1643)年9月3日にはじまった>

(略)

<紀州藩は外教と外船の渡来を惧れて鎖国を事とした幕府の意に従い、かつ領内は外洋に面していて、しかも京阪えの要路ー紀淡海峡を控えているので沿海の警備にはなかなか意を用い、遠見番所を下の各所に設けていた。

加太戌崎、岡田倉崎、雑賀崎、毛見崎、犬崎(左記海草郡)、宮崎の鼻(有田郡)、

白崎、日の御碕(日高郡)、瀬戸崎、朝来帰番所崎、潮岬(西牟婁郡)その他略。

また要所、要所に狼煙場を置き、浦方の制を設けて動員を定め、遠見番所で異国船を見つけると、烽火と浦方の連絡で、急速に報告されるようにしていた。

白浜の番所の鼻はその遠見番所の一つであり、前記のうち瀬戸崎とあるがそれで、瀬戸崎番所と称せられた。

しかし、瀬戸崎の番所が他と異なるところは紀州藩祖の頼宣公がここの番所の側の桔梗ヶ平ラ、現に京大臨海研究所のあるところに別館を建て、しばしばここに来遊して水軍の鯨船を調練し、浅野氏領地のころ、対岸の天神崎にあった遠見番所を特にここに移したことで、それほど重要地と認めたらしい。

もう一つは、他と大いに異なっているのは、他の番所はところの地士、庄屋等に見張らせたに異なり、瀬戸崎番所のみは田辺住の与力に見張らせたことである。>

  夏は涼しい海風絶えることなく冬は南の斜面に暖かい日溜りがある、そこの平地になったあたりに古い瓦の破片

  遠見番所の瓦                                             Photo/2004-11-08

などがあるのを見ることが出来る、その破片そこ現代とはあまりに遠い想出を人々の心にともす実在の伝説の跡である。

  黒船来るその頃の話を村の古老に聞くとそれは昭和時代の僕達の想像も出来ない程大騒ぎしたそうである。

  安藤田辺藩主は和歌山城主徳川藩の命を受けてその部下与力36名を1ヶ月交替の輪番に黒船見張り番を命じたのである。

  その頃2百石の禄を取っていた与力達は出張を命じられると田辺の屋敷へ妻子を残して一人の仲間を連れて瀬戸の浦へ渡ってここでその任についたのである。

<交替の時は、田辺から当番が船で綱不知ー今の白浜桟橋のところえきて、同所の現眞鍋伊右衛門氏の家で引継ぎを行い、満期のものはその船で田辺え帰ったという。眞鍋家は今でも俗に判屋(はんや)と言うが、これは番所の印形でも引継いだからだろう。

 帰るものと赴くものとが、一杯酌み交わすといった情趣もあったろう。中には夏期の交替に、田辺湾4里を水泳で横断したりして、喜んだものもあったとの話>

<与力は1ヶ月交替で順次に勤務したが36人で1ヶ月交替といえば3年間にタダ一度だ。うち幼主の家があったりしても30ヶ月位にしか廻ってこないだろう、それでニ百石はボロイ。>

<現在のように道路が拓けていず、瀬戸部落えくるのも山越して、しかも細い道であり、見張所は番所ノ鼻の山の中央にあって、建物は風の強くふくことある所だけに、丈夫で堅牢を極めたものだったが、平屋で12坪内外の小さなものである。>

<湯川退軒翁は番所について「軒が底く、屋内は数屋にわかれ、建築が堅牢で質朴、戸や窓は二重の構造で、中に入ってすわると船室に居るようだと述べ、後ろの山は狼煙場を設け、もし外船が来たら早船で知らすと記している。」

「(略)。番所の壁に切支丹船が来た時の処置方を書いた紙を貼り、そのわきに漢文で、あなたの船は商船ですか、官船ですか、何を積んでいますか、とか、(略)」などと質問文を書いていたが、もし外人がこれに答えてもこれを解する者は少なかっただろうと記している。>

  6畳と4畳に台所を持ったその平屋の家が与力と仲間二人の住居であり、又、見張番所でもある。その頃でもやはり船の航海は今のように本航路を通っていたそうである、それで何時見えるかも知れない黒船を約1尺位ひも柄のある遠眼鏡でその6畳の部屋から睨んだのである。

もしその視野に瀬戸崎の沖はるか蒸気をはいて船が見えようものなら与力は小踊りして喜ぶのである、何故なら1ヶ月の任期中に黒船を二回見たとか三回見たとか言ってその数多きを自慢にしたからである。

  与力はその船がどんな型の船であり、どんな様子であるかを遠眼鏡で見極めてから安藤田辺藩主に宛ててその報告書をしたためるのである。

  その報告書は文箱に早速納められて仲間の小柄の先に結び付けられ、それをかついだ仲間はおわただしく山をくだるのである。

  まるでこれは僕達少年時代よくみた田舎芝居のある幕で仲間が舞台の花道にかかってエッサッサと面白い身振りで観衆を喜ばすあの場面が想像されて微笑まれるところである。

  庄屋はその急便を受けて、かねてこのことありと手配していた手順で浦でも血気旺んな若者を数名呼び出して早船をたてるのである。

  早船は瀬戸の浦を出て若者の三打櫓勇ましく田辺湾をのして田辺藩錦水城の裏水門に舟つけその重大任務の文書を藩主に差出すのである。

 昭和2年頃撮影、

 錦水城(きんすいじょう)の水門

 錦水城は城と呼ばれていますが、本当は「陣屋」と言うのが正しいのです。

 外堀は、西に会津川、南は大浜に向かい、東北の長さ783メートル、幅36メートルもありました。

 

 

 

 

 

 

  この報告を受けた藩主は時を移さず和歌山城主に向けて黒船瀬戸崎通過の趣きを早飛脚で注進に及ぶのである。

  任務を終えた早船が瀬戸浦え帰ると庄屋は早速、見張番所え参り恙くその任を済ませた旨を報告に及ぶのである。

  村の庄屋がそのためにこの見張番所え来た時でも決して武士たる与力の前で草履をはいては行けなかったと言う余談さえある。

  こうして滅多に通らない黒船の見張りなので随分役人も退屈をしたそうである、でよく山を降りて仲間に磯浜で釣り餌を拾わせ、磯づたいに糸をたれて、なかなか大物を釣り上げたそうである。

  村でも磯釣りによく行く人達は役人と心安くなって、その番所えあがって遊んだり、又1ヶ月交替の時新しく任に就く役人は田辺から芸者(今は村に100人近い芸者が居るがその頃は大変めづらしかったそうである)などを連れて来て今の臨海研究所の南浜で大散財をやったりする時御馳走になったそうである。

  山はその頃女人禁制でどんなに酒に酔っていても決して芸者を山の家えはあげなかったそうである。

<1ヶ月の見張りは見張りは退屈であり不自由で島流しのようなものであったらしい。異国船というてもベルリ以来こそ騒いだが、それまでは先づ左様にザラにあるわけでなく、否、10年に一度もあるかなきかだから、とうとうたる泰平のころには、番所の鼻や塔島で磯釣りをしては、それを下物に晩酌を楽しんだり、春はアオサを採ったり貝を拾うたり、冬は船で湯崎え入浴に出かけたり、桔梗平ラの桔梗を楽しんだり、家族がつれづれに遊びに来たり、悠々たるものであったらしい。

幕末のころ、ここに1ヶ月勤めた久島謙はいくらか文学があったから

   烟横曠野月輪弧、多少漁家影有無、如奈良宵奇絶處、糢湖一水千山図

とよんで、番所の吟風弄月の権を独占したらしい。>

<めったに無いが和歌山藩御用船が近海で難破した時など、周参見代官と立ち会ったりする位で、文字通りの閑職であった。退軒翁は彼らについて、「終日暇にあかせて魚釣に興じ、学問などへ心を寄せる者は稀だった。(略)>

  又天候が悪いため、早船を出せない日などはその山のわづかな窪地でのろし火たいて田辺え黒船通るの通信をやったそうである。

  その跡が瓦の破片のあるあたりの近くに今でもある。与力は弓の稽古をよくやったそうである、ここの温泉場の第一と言っていいこの展望の中でその時代にそうした生活をしていた人達があると思うと懐かしまれてならない。

  おそらく一度この展望を知った人は海と山とのこの風景を忘れることができないだろう。

(略)。

<田辺荘の与力というのは大須賀康高の司令の下に徳川方のために毎戦先鋒に任じた遠州横須賀党の士で、大阪陣が終って天下統一の業が成ると共に「権現様御秘蔵に被為思召候へ共被為進」という勿体ぶった上意で頼宣に付けられ紀州入りした武士のうち、紀州の執政安藤帯刀に属すべき者36人が、人選はなく抽選で選ばれ田辺に居住することとなった人々で、世禄ニ百石で無役であった。(略)>

<与力36名のうち古参ー横須賀以来のものと、中参ー浪人から補充されたものは、安政3年の「与力騒動」で浪人し、唯トリ山のホトトギス、遊んで暮すニ百石を棒に振ったが残りの新参ー田辺藩から補充の人々で見張して、幕末の多忙な任務を全うした。

しかし黒船を発見してどうしたというような話の種は、皆無とは申さぬがあんまりなかりそうだ。>

 <明治2(1869)年2月9日、瀬戸崎番所閉鎖>