千畳敷の裸婦について |
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これは私見が加わりますが、実際あった事も加わります。 |
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昭和7年頃 |
写真として最初に現れる千畳敷の裸婦。この写真掲載については昭和7年参照。 官庁の鈍感な情報伝達より、民間の経済活動の俊敏さを考察すると、私見ですが昭和7(1932)年製作です。 |
終戦後まで |
この絵葉書の説明分は、文字が右からとなっていました。文字は全てカットしましたが、再度絵葉書確認しました。 私見、昭和15年頃までに撮影されていると考えています。
理由は昭和16年頃から極端な紙不足で、パンフレット類も昭和23年頃にやっと出てくるからです。 |
昭和20年迄 |
昭和20年8月15日迄に撮影されたと考えられる裸婦 終戦
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昭和24年夏以降 |
骸骨と裸婦 この年代はマイナスが3年位 あるかもね。
この写真の向って左下をよくご覧下さい。黒い天が明確に、そして人の顔に見えるでしょう。実寸カットをご覧下さい。
この映像探し求めて幾千里、骸骨が裸婦を見ている。 この写真の原本所有者者は深瀬萬樹氏(本人には内緒)、写真は別にも「明光バス50周年史」にも掲載されています。この骸骨作成中に「夏に毎日昼弁当、湯崎三丁目から歩いて製作者(東京都 、羽山、島野)に届けたり、付いていた人」との話で、風化が烈しかったのでしょう再堀した記憶があるそうな。 裸婦は風化がかなり進んでいます。この写真撮影年代は不明なので年代の地図には掲載しません。 |
これだけの作品が写真三枚とは寂しいのですが、念願の映像をお見せする事が出来、私としては満足しています。鎌と弁当運んだ人、誰か、中学同級生(現代西富田在住)です。 その後、千畳敷の骸骨は人気も無く、風化が早かったように思う。裸婦も風化が進み、一時保護されたが自然には逆らえず風化した。
昭和32(1957)年3月頃 千畳敷 注、昭和7年頃、岩に裸婦が刻まれ、約25年の間にほぼ形も無くなっています。平成17(2005)年4月頃に現場と思われる場所に行くましたが、確認すら出来ませんでした。 |
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年代の記憶とは当てになりませんが、あった事は記憶があり、製作した人の名前、その時の苦労は事実であります。ただ、この骸骨も、もうひとつあった可能性があります。私の記憶があるのは上記の昭和24年夏以降の骸骨で、中学同級生は骸骨の場所の記憶が別であるからです。それは多分裸婦の頭部、左側の丸い部分だと思いますが(電話の話)、これも何分にも風化で解りません。 また彫刻すれば良いと思うが、如何かな。この事は、これで終わりとします。 |
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