時代を判定する資料 (新商売温泉掘り、時代のうつり昭和6年参照)

 そのうち白濱が海中の湯を白濱館に引いて内湯旅館を営業し始めるや湯崎の旅館業者も今までの名物湯崎七湯の外湯では到底対抗出来ぬというので大正十三年湯崎有田屋が自宅敷地内に一本掘当てたのが不惑間歇泉であったこれを見て各旅館、土地会社等は競って内湯を掘出したので温泉試掘界は、未曾有の好況を呈し人夫達は方々から奪い合いの有様で「ウントコサのをじさんウントコサのをじさん」と村民から大持てで懐ろは大ぬくぬくだった。

 ところがこゝに大問題が持上がった、昔から牟婁の湯として謳われている舊湯崎七湯の濱の湯、鑛の湯、元湯、疝気湯などが俄に変調を呈して湧出量も少なくなれば温度もうんと下がって冬などぬるくて入れぬという始末、内湯のある旅館は大した影響はないとしても内湯のない旅館は非常な恐怖であったから上を下への大騒で「お前の家の内湯が濱の湯に影響したから掘った内湯を埋めてくれ」「お前の内湯は鑛の湯の泉脈と一緒だから掘るのを中止してくれ」などと紛糾はますます大きくなり果ては学者の意見を聞くことになって京大地質学講師石川成章氏を招聘して鑑定を請ふやら連夜協議会を開くやら揉め抜いた揚句、減った温泉は改めてその傍に温泉を掘って復活することゝして問題は円満に解決したがこの騒ぎに面食らった県当局でもこのまゝ捨て置いては一大事と気がついて時の今松保安課長、東次席警部らが別府その他の温泉地の実情を調査して出来上がったのが「他の温泉より一町以内のところには断じてボーリング相成らぬ」という県令鑛泉工事取締規則でそれからは温泉を掘るには許可願いを出して成功の上は存置願いを出すなど手続は大分面倒となった。

 参考文献 村の日記

 大正15年6月12日鉛山部民大会温泉掘り反対決議

 「<略>ボーリング反対陳情書をつくり、大挙して上県して知事に要請することを決議する。」

 かうして総てに秩序立って来るにつれて取締りも、経営者も、技術者もみんな頭が進んで来て白濱土地に玉置三七郎氏が専務としてその衝に当るようになって新温泉試掘予定地の鑑定のため東大教授小沢博士を招いて精密な実地調査を仰いで掘ったのが同温泉の至宝小沢湯(深度六三〇尺温度摂氏四五度、湧出量二〇〇石)でそのあまり湯で村人が海岸につくった浴槽は本紙温泉座談会でも好評を博した露天の天然湯である。つづいて三百石、五百石という大温泉脈を掘り当てゝ量においても熱度においても本県温泉ボーリング界の一紀元を劃するにいたった。

 参考文献 村の日記

 昭和3年4月3日露天湯完成

 白良浜のみのわの隅に白浜温泉土地が掘った温泉が湧いて、そのまま海へながしているので、<略>男女混浴で大賑わいとなり、白浜の名物となる。

 小澤湯について

 この湯の湧出がいつなのかが、この写真の大きなポイントになります。

但し、白浜温泉史(昭和36年)には休止中の温泉源として小沢湯(白良浜海岸)が記載されています。