明治41年頃、湯崎の惨事と思われる写真。 |
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はじめに ゆっくり、写真をご覧下さい。 この写真の元は、紀州田辺湯崎温泉案内 著者 毛利清雅 明治41年5月の写真をData化したものです。 一、この写真をご覧下さい。最初は何も気付かなかったが、明治の旅館を確認したくて、 Data実寸を切取っていて、困惑したのが始まりでした。 この写真(HP用)です。その部分が建物が無くて何か黒く抜けたようになった居ます。 ニ、それがこれでした。Dataの実寸縮小していますが、ゆっくりと丁寧に見て下さい。
三、確認の為、同じ年代の「ポチと白良浜」を確認したした。その部分が黒くなっていています。 この部分の実寸(拡大)は遠くて、黒いだけです。
四、それから、いろいろなDataを丁寧に見るとありました。 まず、この写真ご覧下さい。何か白いのが垂下がっているように見えます。 この部分のDataの実寸縮小も是非ご覧下さい。
まとめ 記録が無いか、参考文献を調べましたが、明治22(1889)年に崖崩れの災害が同じような場所であった事が記載「湯崎年表・漁業年表(町詩資料と思われる)」に記載がありますが、上記のように明治41年の書籍であり、明治22年の写真を使用するとは少し考えられないし、仮に「それがそうだ」とすると、この写真は明治22年となり、それより古いと思われる。HPの明治40年に掲載の「昔の湯崎」は、明治初期となり、これも考えられない。間違っているでしとょうか。 私は、明治22年にもあり、明治41年頃にも、この山崩れがあったのだと思います。 それは、明治22年の惨事の痕が、大正6年頃の白良浜の写真に、その爪痕か撮影されろだろうか。 |
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