熊野巡覧記の記載 年代参照 |
湯崎村 亦鉛山とも云、鉛山あり 此所には温泉あり一名瀬戸の湯とも云、諸国の入湯冶するもの来りつどひてたへず 温泉 本名牟婁温湯 崎の湯、館の湯、濱の湯、舊の湯、鉱の湯とて五ヵ所あり 此所諸役御免許の地也雙丘と云所に御所の芝と云有此はいにしへの斉明天皇此御湯へ御幸まします時行宮の古跡也と申伝ふ近所に大守の御殿あり 日本書紀曰(この項略す) 白良濱 湯崎と瀬戸の間との間なり古歌多き所也歌は潮見峠より遠見の部に出す故に記せず、此濱の砂極めて白し磨粉に諸方に取行 瀬戸村 此磯崎を牛の鼻と云牛鼻に似たる岩穴有、四相島白崎と云所有、藤九郎盛長の社と云有、又は名の宮と云由、此社に付色々の俗説有、所の人に可尋、此社所の氏神也、同所に梶原の津ろといふ所有、梶原景時船を掛追せし所也といへり、浜辺也、但し景時此国へ来りし事諸記に見えず恐くは俗説也、今 按日本記神功皇后紀伊国徳勒津宮に幸し給ふ事有是の徳勒津宮の古跡にて誤て藤九郎の宮と呼ならん今は髑髏(どくろ)の宮とも云(名草郡日前の北にも徳勒津宮といふ所有) 桔梗平 といふ所有、此磯に水晶に似たる砂有、盆山の敷石によし、江面と云所貝有、名物也 風莫の浦 俗に綱しらずと云、是又遠見の部に出す故爰に略す此所より田邊神子濱へ海路一里、磯間の浦、神島外島多し風景よし 注、「熊野巡覧記」は熊野古座の医玉川玄龍(享保二年七十余で健在)の著。 以上抄出の外、汐見峠の項に遠見の部として白良濱の古歌等を出している。 そのころ、湯崎の温泉は五ヶ所であって、続風土記のできたころ七湯となったこと行幸の芝は、そのころ御所の芝とよびしこと、白良濱の砂を磨粉として搬出されたことなど、これでわかる。藤九郎社を氏神としたのは誤りであるが、徳勒津宮と考証したのはさすがであり、瀬戸の鼻を牛の鼻といふこと、瀬戸古事記に記されているが、その名の起りをこれにハッキリ記されているのは添ない。 注、雙丘の雙は読みそう、意味はふた |
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