伊能忠敬測量日記。瀬戸村と鉛山村測量地図

伊能忠敬測量日記・瀬戸、鉛山両村日記

(前文略)

 文化2(西暦1805)723日、

 朝はくもりがちながら晴れていました。

 波が静かになっていました。

 朝、6つ後(午前6時)、富田組の中村を出立(発)しました。

 先手は、平山、小坂、永沢、利助たちで、鉛山村字梶原より始めて鉛山村まで測りました。

 明日測量する予定の新庄村 までは距離も大分あるので、瀬戸村の内、崎の浜までは今日中に測っておきました。

 後手は、我ら(伊能)、高橋、稲生、門谷、伊兵衛たちで、才野村より始めて梶原まで測りました。

 乗った船は鉛山村へ着きました。

 後手は9つ(正午)ごろ着きました。

 先手は、宿を通り越し、その先まで測ってきたので、7つ(午後4時)前に宿に帰ってきました。

 泊った宿は、鉛山村の本陣森三太夫方です。

 この人は、紀州の殿様より刀を差すこと許されている人です。

 隊員の市野の宿は三木善右衛門方でした。

 この人も紀州の殿様から刀を差すことを許されている人です。

 この夜は非常に曇っていたので天測は行いませんでした。

 この村は温泉がありました。

723日分の現代語訳 伊能忠敬記念館学芸員  米谷 博氏)

 724日、

 朝から少し晴れたり大そう曇ったりしていました。

 6つ(午前6時)ごろ鉛山村を出立(発)しました。

 先手、後手とも舟に乗りました。

 先手は、平山、小坂、永沢、利助たちで、堅田村堂石(どういわ)(現畑崎の観音堂のあるところ)から始めて、富田組と田辺組の境界(池田湾)まで測りました。

 後手は、我ら(伊能)、高橋、稲生、門谷、伊兵衛たちで、瀬戸村の崎の浜より始めて、堅田村の堂石まで測りました。

 先手、後手とも、9つ半(午後1時)ごろ田辺城下へ(後文略)


 地図に記載されている「メトシマ」について

 四双島(シソジマ)の沖に記載されている「メトシマ」とは、四双島(シソジマ)の沖の「シャクシ」ではないかと云う。

 「シャクシ」は大潮の干潮時は岩礁の頂上部分が海面より約2m位だと云う。

 上記「メトシマ」についての記載 2005-02-24