南龍公鯨船訓練

 田辺湯崎の沖に四五百艘の鯨船を集て、その組その手の相符(合符)を定め小旗を自分達自由に拵(こしら)へ貝(ホラ貝?)の相図(合図)を定め、日々夜々に鯨を見に船を走らせていること、舟軍の訓練しているのではないかと、不審に江戸へ聞こえ、御老中全員、(江戸にある)紀州の御城付に向い「大納言殿、湯崎という処にて船軍の鍛錬をしているのか」と上聞(質問)された。
 (江戸にある)紀州の御城付から早速、このことについて、御年寄御用人に伝え、二印の御飛脚にて湯崎へ行くと、早速ョ宣君に合ってくれて、このことを話すると、このことを聞いて、船軍の訓練していると不審に思っているとは、如何なことかとョ宣君より申入れした。
 この申入れを聞いた三浦長門守為時渡邊して、若狭守直綱ら一同に、とにかく鯨船の御遊興を御停止するのがよいと申上げました、
 が、ョ宣君が云うに、この度は江戸の注進にて、この遊びを停止すれば本当に船軍の稽古と云う、停止せずして舟遊して、また咎(とが)めがあれば、船軍の稽古ではないと言分けして済む事であり、すこしも鯨遊を止めることはないと云っているところへ、和歌山より加納五郎左衛門が到着して、江戸よりの意向を話するに、鯨突きの鯨船遊びは、ョ宣公の言うのと同じ内容であった。
 やがて、鯨遊びのするけれども、公儀より何の咎めもなし。
注、上記は、下記「雑賀云」の和文を、私が解説した。
注、漢文は右に掲載し、和文は省略した。

雑賀云。堀内信の南紀徳川史の南龍院言行編に以上の記あり。
漢文は雑賀氏の正文にして和文は所據の言行録の原文と思うである。
このことは何年に行われしか年月を明らかにし得ざるは遺憾なるも、湯崎、田辺の海上に五百艘を集めたる雄風を想察すべきである。


私の参考。

1665年ーョ宣、寛文5年1月26日瀬戸お成り。

1665年ー本藩の三浦長門守瀬戸へ来る。

1665年ーョ宣、寛文5年3月4日お帰り。