明和八年瀬戸村の願状  (注、1771年)

 奉願口上書

 一瀬戸村の儀元來分内狭田畑無数土地薄田ニ而米麦不熟ニ御座候故農事斗ニ而ハ渡世難仕御座候ニ付先年より百姓共農耕之間ニハ漁事並和布海鹿神馬草布糊等之磯草山野之柴薪取売申候事共稼ニ致渡世仕來申候然處近年潮行不宣漁事無御座候上専稼ニ仕候磯草柴薪鉛山多ク刈荒し申候依之村中百姓共稼ハ不及申牛飼場も無御座殊之外指支ニ相成段々衰微仕百姓難立行迷惑至極ニ奉存左之通御願申上候

 一江津良不知綱多知ケ谷湯之谷四在所ハ瀬戸村分内之小名ニ而御座候則往古三太夫六右衛門と申候瀬戸村之百姓鉛山ニ所在仕候其外之者ハ先年鉛堀人共有附居候者ニ而御座候勿論瀬戸村分内ニ而も無御座候所地ニ瀬戸村百姓共住所可仕様ハ無御座候 仍先年ハ柴薪等瀬戸村伐出鉛山へ売申候處中頃願を以歩人足並半分致可申との義ニ付山野ハ鉛山へ入合ニ致させ置申候得共分内狭 纔之磯草山野刈荒し申候得バ瀬戸村百姓共ハ一向稼場無御座事ノ外傷ニ相成行々難相続仕千万歎ケ敷奉存候間自今以後歩人足半分鉛山へ掛不申候猶又山野磯草共瀬戸村百姓之稼場へ入込刈荒し不申様ニ被仰付被下候様奉願候事

 一万府湯崎之湯ハ先年御召湯に被為仰付御役人様方湯守瀬戸村若太夫三太夫へ被仰付之御書附所持仕御座候然共万府湯之義ハ湯壷二ケ所ニ而御座候故南一ケ所は湯壷さや等之修覆致候ニ付湯銭鉛山へ請取らせ來申候北一ケ所は瀬戸村柴薪無数湯あび難仕所地ニ而御座候故農人漁人之者共日毎之夕帰りに湯あび仕労を相休女童之者共ハ毎春磯草稼仕候而渡世送り申にも温湯を心宛終日寒さを忍稼仕候ニ付入湯人にも右北之湯一ケ所へは幕等掛ケさせ不申先年専入込ニ仕來申候處当春は鉛山之所持分之由ニ申立二ケ所倶湯屋へ幕掛ケ申候故瀬戸村百姓共女童ニ到迄是以別而難儀仕候間自今以後先年之通万府湯崎の湯ハ瀬戸村支配ニ致候様ニ奉願候猶又瀬戸村百姓三太夫持分内ニ有御座候湯之分は瀬戸村へ湯銭請取弱百姓共之助成ニ仕らせ度奉願候御事

右之通ニ御座候ニ付近年瀬戸村百姓共殊之外困窮仕難渋至極ニ奉存候尤江津良不知綱多知ケ谷不在ニ御座候へは山野磯草稼候而渡世仕候得共当前之所地斗漁取瀬戸村百姓之傷ニ相成候事は曾而無御座候鉛山之義ハ毎年入湯者多ク入込人宿商物等所益多御座候上無高ニ而御城米御用人用組割諸懸り物少も相掛り不申 纔之御運上鉛上納仕斗ニ而随分益地ニ御座候上猶又瀬戸村分内之磯草山野等迄自己之所持之由ニ申立近年夥敷刈荒し申ニ付稼場無御座候へば百姓傷甚敷年々に衰え弱り申候由故行当り難渋至極仕候迚も此 躰ニ而ハ難立行奉存候間乍恐瀬戸村百姓共御救之御了簡を以何卒右願之通被為仰付被下候はゞ難有仕合と幾重にも奉願上候以上

    明和八年卯二月

        瀬戸村  惣百姓中

        同村肝煎 利太夫  

        同村肝煎 嶋太夫

        同村庄屋 福左衛門

     安宅専右衛門殿

 これは瀬戸村から明和8年春周参見組大庄屋へ願い出たもので瀬戸区に存する控書により収録した。同区にこれとほぼ同趣旨の同年同月付の文書があってそれには「此願書認め申候得共出入済申候故大庄屋元へは出し不申候」と記しているから、この願いのことも間もなく解決したものと思われる。

 これら紛議の顛末は郷土誌の領分としてここには取扱わぬが、この文章によりて

 (1)、湯崎は瀬戸の百姓三太夫、六右衛門が先ず住み鉱山の人々が次いで居住したこと、従って別の願書には両村は親子の関係にありとしていること、湯崎は温泉のある居住地以外の地所は多く瀬戸領であり、後入会地となったこと

 (2)、万府(まぶ)の湯と崎の湯は藩のお召し湯となった年代のあること

 (3)、瀬戸部民のためにまぶの湯二ケ所のうち一ケ所を共同浴場としていたこと

 (4)、温泉地の繁昌による湯崎の経済力は漸次瀬戸を圧し来る情勢にあったこと等を推知される。

 注、次の二つの文字がなく画像で処理した。