○牟婁の小山実隆 其祖小山下野守藤原朝政より六代、下野守高朝の三男、新左衛門尉実隆(長男判官秀朝 次男石見守経幸)、南海の海賊を伐つべき命を蒙り、一族郎党率ひて牟婁郡に来り潮崎荘に止まる。 経幸も後ち南朝に属す。(家に南朝の綸旨二通其他文書蔵す) 又牟婁郡富田荘地頭職たり。正平二十一年(1366)三月、田邊口合戦の時三十六人討死と南朝への注進状にあり。其子兼光南朝に奉仕し、南朝より任官の口宣案等の文書あり云云 注、小山岩見守 小山家系図に、元弘元年(1331)鎌倉幕府の命を受けて南方海上守備のため関東宇都宮方面より来住した小山岩見守経幸のこと(参考文献 安宅一乱記) ○潮崎氏 潮崎荘または●崎とも書す。潮崎氏は平相国清盛の弟、池ノ大納言ョ盛の孫、河内守保業の子保定の裔なり。承久三年(1221)北條泰時、京都乱入の時保業を京方なりとて罪を負ぜて紀州に流す。因て此地に住す。其子保定、地名潮崎を以て氏とす 後村上帝の時、当国目代佐々木伊勢守貞綱、潮崎氏と婚す。因て潮崎を領すと 元弘の乱に、北條高時、小山実隆、同経幸に命じ熊野海辺を守護せしむ。 実隆来つて潮崎に住す。代々此地に住す。 小山、潮崎隣好厚く、婚を通じて一族となり、互に相助く。 延元の頃(後醍醐帝朝)南朝より●崎一族中、小山一族中として綸旨二通、三前郷西向村小山氏蔵あり、又正平二十一年(1366)潮崎逸学討死の事、小山より奉状あり(此文書安宅荘久木村小山氏蔵) 参考文献 皇室と紀伊 注、●は文字なし。 第97代後村上天皇(1339/10/05〜1369/03/11) |
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