安宅一乱記と大辺路古道の記述

 安宅一乱記は原本に年代の記載がないのでしょう。年代の記載のあるもの、ないものが混在していますので、安宅一族の記録より室町時代、戦国時代中頃 {元和元年(1615)}までの約200年間の時代として記載します。

 一、 巻之三目録 土井が城洛城之事

 (略)、霜月富田郷を越、(略)、(略)、袋の湊より勝山に廻し、人々皆田野

 井帰て、(略)。

 私こと思う。

 田野井から安宅へ富田坂とは、考えなれない理由があります。この文章 の全文を要約すると、安宅と戦うために、富田へ食料を調達に浪人と偽  って行って、篭城して討死、落城の記述です。

 安居には安居軍があり、同じ安宅軍であるので、偽りの浪人などはすぐ  にばれてしまうこと。

 もう、一つは、地理的に田野井ら椿・見草・富田は尾根続きで、富田坂を

 越えるよりも近いこと。

 ここの富田坂は安居からではなく、田野井から富田坂。

 行き。

 田野井から安居辻松・峠茶屋・富田・偽りの浪人で食料調達・富田袋の港から船で食料を味方に送る。

 帰り。

 行きと同じルート。

 と、思う。


 二、巻之一目録 霜月四日軍之事次部大輔自害之事

 (略)、田辺山本主善(富田ノ地頭)、(略)、富田より責入よし、(略)

 日置の浜ニ渡って陣を取、八幡山より田辺勢を防の為に、(略)、

 百六拾騎富田坂へ向ふ、(略)。

 私こと思う。

 富田坂で戦ったのではなく、安居にて戦いがあったような記述であり、要  約すると、「田辺勢は富田坂越えて300余騎で安居の陣に攻入り」と、記述されている。

  馬約300頭と兵員、それに食料など、田辺勢の富田坂越えは大変だったと思いします。又、兵員は刀や槍を持ち、馬に乗れないところは馬の手綱をとって富田坂を途切れることなく列をなして延々と続いていたと想像します。


 三、 巻之三目録 安居軍之事

 (略)、土井が城にて討残されたる者共、(略)、安居へ落行、富田へ越んとせし処、(略)。

 私こと思う。

 この記述は上記一の続きで、この戦いに土井が城にいた兵250余人と  記述あり、一部(20人)の家臣などが、安居から富田坂を越えようとしたが安居軍が討ち取ったとの記述。


 四、 巻之六目録 新宮勢押寄る事

 (略)、陸の戦ひハ長恵坂の難所(略)逃退キ、江住浦で小船に、(略)。

 私こと思う。

  「長恵坂」は「長井坂」のことですが、古書などを読んでいると、度々こんな誤字に出会いますが、誤字ではなく、その当時は「長井坂」のことを「長恵坂」と呼んでいたと思う。


 五、巻之九目録  藤井延助が事

 (略)、同廿七日富田坂の難所にて、山賊の大勢に取込られ討れり、(略)。

 私こと思う

 この「藤井延助が事」の全記述は、要約して記載。

  藤井延助という人は現海南市か海草郡の役所に勤めていたが、結婚してから、役所勤めをほったらかして、日置川の安宅に小さな家を建てて、妻と生活していたが、友人から「妻に惚れ込んで、毎日遊んでいてはならない、早く、役所に帰り、勤務するように」と忠告を受け、本人もそのように思っていたので、役所に帰るために、富田坂で山賊に出会い、討死しますが、その弟も、それを聞いて、仇討ちに出かけ、又、討死します。

 私こと思う。

  「富田坂」に山賊がいたとは、今からですとそう思いますが、戦国時代

 負けた落武者の集団があったも不思議ではないと思う。