祗園南海と南紀白浜

 享保18(1733)年4月

  13日、和歌山から船に乗り、大崎に仮泊

  14日、湯崎の浜に着、森氏方に22日まで滞在。

  15日、休息

  16日、千畳敷

  17日、雨にて宿で医原春庵とともに語り

  18日、七境を選んで詩、別に鉛山図二幅を書いて春庵と旅館主へ

  19日、白良浜、瀬戸、番所山方面を遊覧

  20日、春庵がその二子を連れてきて、明年遊学の以来

  21日、南山の僧霊源来訪

  22日、春庵及び南部の吏某、本覚寺主らと船遊

  23日、船で即日和歌浦に着き帰宅。

 寛保2年9月、紀藩国老三浦為恭とともに

 延享元年春、夫人とともに

 宝暦元(1751)年夏

 享保18年の鉛山記行、鉛山七境の選定とその詩、宝暦元年の龍門岩の額は後の文学者や書家に与えた影響は非常なもので、

 寛政6年の菊地西皐(三山記略)

 万延元年の斉藤拙堂(南遊志)

 明治17年の青山鉄槍(大八州日記)

 昭和2年の徳富蘇峰(紀南探勝遊記)

などの大家はいづれも来遊の際この詩を見ており、

 祗尚濂の六景、菊池渓琴の六景、津田香巌の五景

等、先生の七境に似たものも多い。七境に唱和したもの等にいたっては際限がない。

 幕政や明治の時代の時代は、温泉や名勝の宣伝は大家名士の詩文を宗としたことは人の知るところであるが、天下の南海として盛名があった先生が、度々遊んで以上の選あり、その詩は南海詩集に収められて各地に伝唱されたことは、この温泉の名を宣伝する上に非常な効果をもたらしたことは言うまでもない。

 この境、その人、又とないコンビで、しかも不朽の伝唱だ。

 祗園南海 −祗園南海先生像ー   鉛山七境詩

 紀州藩の儒臣。木下順庵門の俊秀、新井白石、雨森芳洲、南部南山、榊原篁洲らを友とし名を競い、詩の松浦驪ィとともに木門の2妙と称せられ、又南画をよくして池大雅の師となった人、紀藩では地方200石を給せられた。宝暦元年9月79歳没、詩、書、画は3絶として今も人の仰ぐところである。

 原春庵

 もとは北越の人で湯崎にて医を業としていたが、文学を好んで詩をよくし家に多くの史書類を貯へ温泉客に自由に貸し与えたという。

参考文献 白浜温泉史 昭和36年4月5日発行

参考文献 南紀雑筆 椿の葉巻 著者雑賀貞次郎 昭和13年5月19日