第六章 鉱業 第一節 鉛山鉱山 白浜の歴史は古代までさかのぼれるほど古い。しかし一寒村が今日の白浜に至ったのほ全く温泉のおかげであるといっても過言ではない。また、この繁栄をもたらさせた端緒は十六世紀のころに始まった鉱山の発掘によるものであろう。鉱山の振興によって多くの人々が住み始め、温泉と相まって今日がきたと思われるのである。 温泉は一三二〇余年の昔、斉明天皇四年(六五八)に入湯のため大和から行幸があったと{日本書紀}に書かれている。温泉ほそれよりもっと以前に、既に大和の都まで知られていたようである。それでは鉱山の方は何時代ごろに発見されたのであろうか。 日本史上初めて名前が出てくるのは大宝三年(七〇三)で、「続日本紀」に次のように記されてある。 大宝三年五月令紀伊国阿堤、飯高、牟婁、三部献銀 と。阿提(有田郡) 飯高(日高郡) 牟婁の三郡から朝廷へ銀を献納した、ということであり、この牟婁の鉱山といえば当地湯崎の鉱山と思われるが、いまだかつて銀鉱が産出されたという記録は見当たらない。当鉱山から産出されるのは 閃亜鉛、黄銅等の鉱石であるからである。判然としている採鉱記録では鉛を主体に採掘せられたようで、よってこの地ほ鉛山(かなやま)鉱山と呼ばれ鉛山村と名づけられた。今も自良浜の湾を鉛山湾というのである。ではこの 鉛山鉱山が何時代に発見され採掘を始めたのかといえば、正親町(おおぎまち)天皇の時代であったようである。 それを証明できるのは近年古い裁判の書類が大門家においてみつかったからである。その書類というのは明治十年代に瀬戸村と鉛山村が温泉地券の問題で争ったが、そのときの書類の一冊に「鉛山部始終審捧呈書類写」というのがあって、その中の一節に、「(前略)正親町天皇ノ御字鉛鉱ヲ発見シ鉱夫来り住スル者年二多キヲ加へ、人口繁殖シテ一村落ヲナシ逐二分村シテ鉛山村卜称スル(下略)」 と書かれてある。これは明治十六年八月二十日に大阪控訴裁判所へ提出された書類ゆえ信じてもよいと思われる。 当時の日本は動乱の戦国時代であったが、なぜ紀州内で多量の鉛の需要が起こったか、なぜ鉛鉱脈の発見に迫られたのか、それほ新兵器として鉄砲が渡来し始め、当然ながら銃弾(丸い鉛弾)の製造が盛んになり、原料の鉛が必需品となったからであろう。 それはさておき大門家文書から推して鉛山鉱山はおそらく永禄の初期から天正の後半(一五五八〜一五八六)のころに発見され採鉱を始めたものであろう。 採鉱は人力のみの時代ゆえ、井戸掘り式の竪穴で縄梯子を投げ込み採鉱に降りて行っては、葛籠に入れて背負って 昇って来るという方法であったようである。こうした竪穴坑が三段の梶原谷から平草原を通り湯崎の大山にかけての山中に三〇〇か所以上あったらしい。今ほ危いということと土地造成等で大半埋められてしまったがそれでも二〇〇 数か所は残っている。一般に土地の人は鉱穴(まぶあな)と呼んでいる。現存の鉱穴を見るに口径約二、三メートルや四、五メートル等の大小があり生い茂った雑草の中に不気味なロを開けている。危険で近寄れないので深さは計れないが、石を投げ込むとコツソコツソコツソと壁面に当たる音がしだいに小さくなっていってしばらくしてチャブンという水音がかすかに聞こえてくる、ずいぶん深いようである。この鉱穴から地上へ出した鉱石はまず砕石にして不 用物を取り除き、揺り場(ゆすり場ともいう)へ運ぶ。揺り場ほ大山口の真下で浄土川(俗にヂョヂョ川とか土壌川と呼ぶ)に面した谷あいの狭い平地(現在通称百合場)にある。鉱石を笊に入れ浄土川で揺り洗いをする。洗った鉱石は少し下流のタタラ場(タタラ町の地名今に残る。溶鉱炉へ風を送る道具<フイゴ>をタタラという)にて焼くのである。 夏期に川が渇水したときは深い井戸があって、その井戸水で洗ったといわれている。その井戸ほ砕石を積み上げた丸井戸で径約一、二メートルほどで深さは五メートルはあるだろう、湯崎唯一深い井戸である。最近までそこに残ってあった。 戦国時代からしだいに脚光を浴び始めた鉛山は、各地方からあたかもゴールド・ラッシのようにぞくぞくと坑夫たちが入ってきて、温泉と相まってたいへんなにぎわいを呈したようで、今も古老たちは「鉛山千軒」といって当時の繁盛をしのんでいる。 この人たちは千畳、平草原、大山一帯にかけて山中から村里近くまで住んでいたらしく、今もその住居跡の石積みが山中に苔むしてたくさん残っている。これらの住居跡はおおむね山の北側の斜面に多い。南側にないのは、土地柄夏の日当たりが厳しいこと、台風や冬期の強風には簡素な掘建小屋では吹き倒れる心配があるためであろう。飲料水は溜井戸と川水であったようである。 時々の為政者は採鉱を督励するために鉱山関係者に種々の恩典を与えた。慶長五年(一六〇〇)九月に関ケ原の合戦が終わり、戦功により浅野幸長が甲斐の国から紀伊守になって移って来た。入部と同時に、採鉱奨励のため免税等を行ったが、その古文書の原文については、「資料編」にあげたほか、「本編上巻」にも掲載することになっているので、ここでは省略し、文面の意味だけを簡単に記しておく。ただしこの解釈には異論もあることと思われる。 鉛山貢租定(鉛山税金の定め) 一 公用の鉛一人に付き二百五十目であるが山の目方で二〇〇目に定めてやる。 一 田辺から山へ入る者が分を過ぎた高値をいっても一割程度の高値を申し付けることを許す。 一 この外、仕事の上ではことごとく許すから掘り子達を集めて精をを出すこと。 右の条々を堅く守っていささかも違反のないよう。 慶長五年十一月朔日一日) 幸 長 花 押 瀬戸山堀子中
瀬戸鉛山村に屋敷を持っている者達 五石二斗五升七合に当年よりお年貢(税金)をお許しのむね仰せ出されたから、鉛山の儀怠ることなく掘り申すように。 慶長九年三月五日 左衛門佐 花 押 鉛掘中
その後元和五年(一六一九)に浅野幸季長ほ広島へ移ることになり、代わって同年の七月に徳川頼宜が紀州の藩主となって釆た。父徳川家康ほ重臣の安藤直次(帯刀)を我が子の後見人としてともに下らせ安藤帯刀ほ田辺領を支配することになった。そして前者に習い同じ条文の次のような免税書を頼宜も出したのである。 定 一 公用の鉛一人頭一か月二五〇目であるが、山の目方で二〇〇目に定めてつかわす。山が盛んになって人が多くなったらいつでも申して来ること。 一 山へ入るについて田辺から過ぎた高値をいって来ても一割高に留め申し付けることを許す。 一 この外仕事の上の事はことごとく相許す上は掘り子達を集めて怠りないよう精を出すこと。 右各条を堅く守って、このむねいささかも背くことのないよう。 元和五年八月二十七日 帯 刀 花 押 出 雲 花 押 瀬戸山裾子中 鉛山へ行っている者は漁獲物の二分をお許しなされるから、いよいよ山を盛んにするよう精を出すこと。 亥霜月九日 彦 九 郎 印 水 淡 路 印 安 帯 刀 印 田辺之内瀬戸 鉛山惣中
こうした古文書を見ると、江戸時代の初期、代々の領主が採鉱奨励のためいかに力を入れたかということがよく分かる。この現物四通の古文書はいずれも湯崎山神社境内の末社御書神社の御神体として今なおたいせつに祭られている。この免税等の恩典は村民にとってよはどありがたくうれしかったのであろう。感謝の心を忘れぬために三百六十有余年も過ぎた今日でもなお御書祭といって神事を続けている。 後年鉱量も減少しついに衰微の一路をたどった。元禄十年(一六九七)ごろには家数も六〇軒になり同年十一月の大火にはわずか七軒が焼け残っただけというありまさになった。その後田辺の「御用留」に散見するほかは、大正期まで何の記録も残っていない。 (後文略)。 |
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