鉛山記行  祇園南海      

 享保十八(1733)年
 四月十三日
 葵丑の享保十八年夏四月、私は長男の鉛山に湯治に行くことになった。岡柳橋氏も、また同行を約束した。四月十三日、甲子、まさに正午、舟を水門橋下に用意した。岡氏は先に着いて待ってくれる。雷泉源氏と二三人とが長律を作詩してきて相送ってくれる。私もすぐに橈を留めて詩を和した。濂も亦、律詩を作って別れた。
 既に舟は牛渚関(紀ノ川川口)を下る。振り返って見ると雷泉諸氏はなお岸に沿って送ってくれている。湯治に行く私たちを羨んでいるようだ。行々双子洲(雑賀崎)にある小島)を過ぎる回顧すると淡路島は黒々と見え、鱗ある龍のみずちが住んでいるかと思われる。雲際に日が射しているが、雨は降り続いている。今夜は大碕湾(下津の大崎浦)に泊る。その地は、全く静かで美しい。周囲の山々は海水を抱いて、浦は龍の口のようだ。夜、まさに十時ごろ、星や月は白く光っている。空と海は色を重ねたようだ。
 湾の中程に碇した。彼の音が声枕に近くて、客は骨眠れないようだ。月は南の方向にあり、鐘声が海面を渡って東より聞こえて来る。之を問うと和歌山の城南の更鐘だと言う。距てること既に三十余里もあるのに、声が風に随って良い響きに聞こえることよ。船頭達はぐっすり眠りこけて、鼾は雷のようだ。其の卑しさと舟とは忘れられようか。

 四月十四日
 夜明けごろ風は止み、ただただ凛うようになった。宮碕砦(有田市宮崎の鼻)を歴て軽藻洲を過ぎて進む。野牛岩・ 椒浦・鴨渓、を遠望する。漁烟によって興国峰(日の岬上の峰)は見え隠れするが厳めしく兜のようだ。ツルツルの石が高く聳えている。磯の潮勢は大層危険で、舟が往々その為に難破している。この日の天気は穏やかだが舟は尚揺れて安定しない。東の松堤一帯(煙樹が浜)を望むと長さ十余里、漁家が其の岸に櫛歯のように並んで見える。岩場と距たること八九里、地形の険しい所と平らな所は全く離れている。その地勢は殆ど予測出来ないほどである。ちょうど日が暮れ始めた頃に鉛山温泉に着いた。
 地に喬木は見えず、唯黄色の茅がと葦の藪で、山を背中にして海に向かって高い崖の下に家が建ている。温泉は敷か所にあり、皆、石の割れ目から沸出している。上に各々屋根を置き、石を並べて淵を作っている。
西南の岸頭に一泉石がある。自然の小石ばかりで曲がりくねった池が出来ている。形は小舟のようだ。二丈ばかりで、横は其の半分ぐらいである。其の湯は最も清潔であり、石は空の紺碧に映えて大層素晴らしい。其の次の礦泉も又きれいだ。其のほかの三泉はそれほど温くなく湯も又汚い。四方から食料を持参して来浴する者は少なくない。
 この時は阿州(徳島)の人が最も多かった。噂に聞けば、阿州の人はいつもよく温泉の効用を知って入浴していると言う。

 四月15日
 丙寅の日、天気は快晴になった。しかし、私達は大層疲れて出遊ぶことができなかった。
 四月十六日
 翌日の丁卯の日、千畳敷に遊んだ。海も空も、風は穏やかで、鏡のような海面がどこまでも広がっていた。四国の諸島は眉墨色に並び突出して見える。船の帆影は遠くに又近くにあり、空と同じような所に浮かんでいる。磯頭の乱石は皆怪奇な形をしている。鉛山七境中の所謂、芝雲・龍口の二巌は最大にして最も奇抜である。その他の岩は湾になっていたり、淵に、洞になっていたり、敷物のような所があったり、升のようになっている所、岩が剣の形をしていたり、獣や鬼の顔の形をしているのもある。あるものは赤色、あるものは緑色、あるものは灰色、あるものは黒色であったり、あるものは紅白の桃花のようだ。岩石の形は千変万化で、ことごとく説明できない。其の縞模様は切り裂かれた筋でできており今までの画家の皺法(しゅうほう)が修得していないもので、その描き方はすべて眼前に明らかになっている。古人の「造化を師とせよ」と云っているのがここでよくわかる。その上に燈火楼がある。南に離れること二重ばかりの大きな丘は「さら」のように見える。遠望すると野原のようだ。傍に金坑が数十あり、開礦して百年、礦脉が海に入ってしまって中止したと聞いた。
 礦山の側の沙礫(小石)は粒々になって重なっている。それらは皆、銅鉛を含んでいる。今なお一年に若干銭の鉛を産出しており、鉛を年貢として納めていると云う。

 四月十七日
 庚午の日、昨夜からの雨があがったが、道はまだ乾いていない。
客は皆簾(すだれ)を下ろして几(机)の陰で眠っている
山中の医、原春庵氏が釆て、詩を見せてくれる。原氏は元北越の人である。まだ若いが詩をうまく、此に隠居している。家に史書が多く、客にちょっとの閲覧をさせている。この人と話してみると、なかなか雅趣がある。

 四月十八日
 翌日も原氏と宿の主人が筆と硯を持ってやって来て、書画を請うた。そこで鉛山七境の題を取り上げ、各々の地の詩を作って贈った。併せて鉛山図二幅を措いた。残念なことだが、意にかなったりかなわなかったり、拙技の為僅かにその大略を書いただけになった。抑も風波・烟雲の出没変幻のすばらしさば、荊関董李等の神手を持っていないので、描き尽くして詳しく写せない。

 四月十九日
 壬申の日快晴、灘渡(瀬戸)に遊ぶ、鉛山の東北二里に在る。歩いて一丘を越えると砂浜の沙頑で口である。いわゆる七境の銀沙歩(白良浜)である。ここを過ぎること百余歩、平たな山が突き出て林が茂り鬱蒼としている。中に神社が有る。(御船山、熊野三所神社)
 その北一里で又一山があった。上に斥候楼がある。(番所山)下には双岩が並んでいる。また岩原に足を開いて立った島があり、中間は空洞になっていて、回って帰るのを遮っているようだ。(円月島)西北の総べての島は禿山で、三つの洞が美しい。まるで家の窓のようだ。一名、唐嶼(塔島)という。東岸の石門は猛々しくそそり立っている。上に先朝別館がある。今は己に廃れている。しかし、民は尚ほ互いに注意しあって敢へて舟をつながない。
 灘渡(瀬戸)の村落は農業と漁業をするものが相半ばしている。「本覚」寺という寺がある。「藤九郎祠」と神社があるが、未だに何の神か分からない。海を渉る者、風に遇うと銭を洋中に投げて祈るとすぐに応じてくれる。その銭を潮が、送って必ず神社のもとに差し上げるという。村の東を「江面」という。又「畫面」と書き、又、「江津良」と書く。その前の海を「八百八洲」と云う。
 東南に水に沿ひて行けば、海は、山間に通じており、穏やかで渓澗を行くようだ。ここは太刀谷天狗洞という。山を三四里行けば、田辺に着くというが、余の力はすでに倦れて深究でないのが恨めしい。洞中には「寄居虫石」がある。石上に生えたり、石中にあったりする。形や色は「寄居虫」(ヤドカリ)と全く同じで、ただ大きいだけである。之を推してみると堅いこと鋼鉄のようだ。思うに、石は久しき年をへて、虫に変化したのか、また、虫が変化して石となったのか。大自然の妙は、全くわからないのはこのようなものだ。山には水晶石、牡丹石、蓍木苣(めどきぐさ)等がある。蘅鏡乳赭石の類が時々出る。木の葉の上に亦た甘露多い。久しく留まっていたい気持ちがする。霊草も採れる。思うに昔から求道者は多いが、普段は名山が遠いのを恨むが一度その山に入ると、ただ、世のしがらみに心を寄せてそれを感謝しない。鳴呼、尚子平・陶隠居のような隠遁者は実に少ないものであるよ。

 四月二十日
 発酉の日、原氏は二人の息子をつれて約束修正の為にやってきた。来年、子供が都に遊学する時は必ず私に子供を連れて行ってくれないかとの依頼があった。

 四月二十一日
 甲戌の日、南山の僧、霊源が来て詩画を請う。其の人甚だ酒を嗜む。自らを「江南の飲んだくれ」という。聞くとこの地に純良の酒が有るという。行って飲もう。狂歌爛酔してしまったが、欲の薄い人でなくても、この人を俗世間の僧と比較して、やはり、この人に「雅(みやび)」を覚える。

 四月二十二日
 乙亥の日、朝食後、原氏が彩色した小舟を用意して、瀬戸先の舟遊びをしようと誘ってくれた。南部の村の役人の某は弁当を用意しようと云う。本覚院主も又、香りのよい漬物を携えて釆て、遂に一緒に舟に乗って再び瀬戸の海上に遊んだ。風日清々しく穏やかで、魚は細き水を吹き上げるほどの良い天気である。柔らかい櫓を意のままに操って往復し、素晴らしい景色の中を徊遊して帰った。帰りの舟は浪を衝き速いこと飛ぶ矢箭のようだ。心躍る思いで自在に走り、殆ど風を思いのままに操る思いがする。舟ほ原氏の所蔵である。海の男が乗りこんで兵船をあやつるのはこうしたものなのか。その軽く速いことはこんなのだ。

 四月二十三日
 既に私と息子の尚濂との病はすっかり治った。鉛山温泉の景勝もまた大層すばらしかった。そこで、翌日、遂に舟をって前路を通り帰り大崎に至る。雨が甚しい。舟ほ進むことも出来ず海彼の雨景は前日の比ではない。更に大きい舟を賃って和歌の浦に着き、舟を捨てて歩いて我が家に帰った。ああ、此のこの旅の旅行は得る所が非常に多かった。その最大のものは三つある。一つは病が治ったこと。二つ目は珍しい山や海の景色を見たこと。三つ目は珍しい物を見たこと。ただ、一つ恨みが残る。蘇長公・秦准海のような風流な文人たちと船旅を共にし、恵泉・龍泉と云われる白浜の遊びを続けられなかったことだ。これは遺憾なことだ。
  享保葵丑四月   源瑜 識  

  注、享保十八(1733)年四月  源瑜(祇園南海)  記す
 

 祇園南海 略伝
 祇園南海は紀州藩医の子で和歌山に生まれる。少年の頃、父に従って江戸に出て、木下順庵の門に入る。俊秀にして詩才にも富んで、若くして頭角を現した。新井白石、雨森芳州、南部南山、榊原?洲らと琢磨した。詩は松浦驪ィと木門の二妙と称せられた。さらに画をよくして池大雅の師となっている。元禄十年ニー歳で家を継ぎ、本藩の儒官として禄二〇〇石を給せられたが、同一三年放蕩無頼の故をもって禄を奪われ、伊都郡長原村に謫せられた。正徳元年新井白石の推挙により幕府に召され、同二年功をもって旧禄に復せられ、儒官として近習の列に加った。
宝暦元年七五歳で没した。

注解 <元に戻る>
濂 祇園南海の長男、祇尚濂

注解〇 <元に戻る>
鉛山 湯崎温泉

注解〇〇  <元に戻る>
更鐘 夜間の刻限の移り時に打つ鐘の音

注解一  <元に戻る>
「造化を師とせよ」 画法での自然を良く見よとの教え。

注解二  <元に戻る>
春庵は原氏の号

注解三 <元に戻る>
荊関董李 共に名画工。五代の荊浩、宋の関全、董巨、李成のこと。

注解四 <元に戻る>
先朝別館  臨海の所あった徳川家の別館。

注解〇五 <元に戻る>
蓍木苣 めどくぐさ。この草は茎を占いに用いる。

注解六 <元に戻る>
蘅鏡乳 天狗洞の天井からの鏡乳。

注解〇七 <元に戻る>
赭石 赤鉄礦、砕いて顔料にする。

注解八 <元に戻る>
甘露 天下太平の印に降るという甘い露。

注解九 <元に戻る>
尚子平 息子の嫁が亡くなっても家事もしなかったという故事を残した隠居者。

注解十 <元に戻る>
江南 中国の名酒の産地。
 

参考文献

 講読郷土詩 白浜編 千葉宏太郎編 平成14年11月吉日
 白浜温泉史 昭和36年4月5日発行
 南紀雑筆 椿の葉巻 著者雑賀貞次郎 昭和13年5月19日