慶長湯湯銭定 慶長6(1601)年

              覚

一湯銭当村家一間に付銀子二ふん宛可取候也一ケ月分也

一他所より来り候もの湯銭一人に付銀子五ふん宛一七日分也縦二七日三七日入候共湯銭同前之事

一左京殿家中上下共湯銭取申間敷者也

慶長六年正月十日  左衛門佐(花押)

            湯坊主三位

当所湯人上下共薪買候て焼候様に可申渡候自然相違のもの於有之は此方へ可申理者也

慶長六年正月十日  左衛門佐(判)

            瀬戸村百姓中

薙賀云 これは浅野氏の紀伊封初、田辺地方を支配したその 長臣浅野左衛門佐が湯銭を定めて管理者たる湯坊主三位に与ふると共に瀬戸村にも定書を下したものである。

湯銭の定は現に湯崎森三太夫家に蔵す。

湯坊主三位は慶長九年の検地によれば田畑屋敷だけで渦泉地で六段四畝歩余を所有している。

三太夫家ほその後かと思はる、代々薬師堂の堂守をなし苗字帯刀露されていた。