海老網漁                    参考文献、白浜の明治編 宮崎伊佐朗著

 明治4年(1871)、海老網五人乗船十艘五十把持ちとあり、大正5年(1916)には瀬戸二五帳、江津良一〇帳、綱不知一四帳などの記録がある。(注、一帳は網一〇把)

 昔から、瀬戸の漁師にとって、この海老網漁はイセエビだけでなく、磯漁も同時に捕られる重要な稼ぎの生業であり、イセエビは鯛と並ぶ高値で取引される漁家のドル箱であった。

 その頃の網は綿糸で一把の長さ三〇尋、網高四尺が一般的で、漁師は綿糸を買って、自分で身網をすき、あば浮は杉の木の赤身を削り、網の重しにするイワは綱不知の瓦屋正木久兵衛が垣谷の工場で焼いたものや、田辺から買ったものをつけた。

 イセエビは地先の浅場から二、三メートルの深い岩礁地帯の岩棚や裂目にすみ、夜行性である。

 産卵期は五、六月から八月にかけて、従ってその頃は禁漁である。

漁期は十月から翌年四月までで、漁師たちは漁期になると船に四、五人が乗組み、夕方持ち網を各自一〇把を積込んで、三挺櫓で沖へ漕ぎ出し、抽籤で決まった礁に網をおろし、翌朝未明に網を上げるのであるが、闇夜がよく、月夜を避けて一ヶ月二十日ほどの操業である。

 岩礁地帯に網を張って置くので、夜中波立ちのときは、網が岩にからまって、網を破り、海藻がからまったりで、網の整理が大変で、漁師は破れ目のつくろいに終日かかって、また夕方の出漁に備えるのである。

 網が綿糸の時代は、その網の腐れを防ぎ染色のために、毎年漁期が終わると、椎の木の皮をたたきつぶしたものといっしよに、その網を大釜で焚いて、樹皮の液で染めていたが、何十把もの持ち網を染める皮焚き作業は大変な重労働であったと、老漁夫の述懐である。

 網は大正中期には、綿糸からラミー(麻糸)に変り、混紡糸へと材料の強さや水切れのよさ、重量の軽さなどが選ばれて、な がい年月とともに改良され、昭和24年(1949〜50)頃からナイロン製の三枚網が出現、これは紡績工場で身網が織られて、網目の寸法もいろいろあり、長さも希望どうりのものが既製品化されて、糸が細く強く、水切れもよく腐ることもなく軽いので、使用も安易になり、そのために漁獲量も倍増したが、その反面、移動性の少ないイセエビはだんだん減少してきたので、漁場ではその対策に禁漁区を設けて乱獲を調整したり、投石や築磯魚礁を造って、イセエビの増殖を図っているが、地先の汚れで、海底魚介類の減少とともに漁獲量も年々少なくなるばかりである。

 このエビ網にかかる磯漁は、ぶだい、あいご、かさご、にざだい、めじな、たかのはだいなどである。