地引網                  参考文献、白浜の明治編 宮崎伊佐朗著

 瀬戸のように、漁村で、地引網を何ヶ所も引ける浜があるのは珍しい。

 江津良浜、崎の北浦浜、瀬戸の浜、白良浜と四ヶ所で耳鼻網が操業でき、しかも崎の北浦や江津良浜では、鰯(いわし)やキビナゴの外に、高級魚の島鯵(しまあじ)やあふりいかの種烏賊が主とした対象魚となるので、昔から地引網が発達したと思われる。

 明治時代には、瀬戸の芝田与七がこの地引網と三統持ち、綱不知では正木徳右衛門、江津良では田井善九郎、瀬戸では古屋市松らに、この持ち網を差配させて操業を続けていたと謂われている。

 大正時代に入って、瀬戸で小芝藤助、津多佐助らが網を一統ずつ新調して操業を始め、瀬戸の浜と白良浜で交互に夜間操業した。

 漁期は春4月〜六月、秋は九月、十月で、鰯やキビナゴなどの群れが夜間港のうちに押し込んで来たのを発見すると、長二〇〇尋、網高五尋の網をいつも積込んでいる大きな網船を浜から海におろし、二、三隻の勢子船とともに、その魚群を遠巻きにして網を張り、浜から、女子、子供たち二、三十人がふた手に分かれて、引手縄を引いて、網を引き上げるのである。

 港の中に魚群が見えないときは、港外で火焚船が宵の内から集魚灯をつけて魚群を誘い、魚群が火についたとき、火をつけたまま、徐々に船を港の中へ入れて来て、瀬戸の浜では網が引ける港内の「みんのしる」前辺りまで来たとき、待機していた網船が、その火焚船を遠巻きに網を下ろして地引きにかかるのである。

 当時は、この二統の網で、鰯やキビナゴの大魚が続き、村に加工業者がないので、田辺磯間の業者の所へ船で運んだり、また、大きな網の「こわり」に生けて置いて、田辺江川の鰹船が毎朝、鰹釣の餌に買いに来たりで、浜には活気があった。

 大魚の時は、いつも魚価が安く、大魚貧乏であり、また獲れすぎたときは、瀬戸の浜や白良浜に干し広げて、肥料の「ほしか」にすることも再三であった。

 昭和一二(1937)年日中戦争が起り、それから人でも不足し、夜焚きのカーバイトの配給もなく、灯火管制や漁火制限などで操業できなくなり、長い間続いた地引網も終焉した。

 後文、注を略した。