綱不知と江津良の地引網 参考文献、白浜の明治編 宮崎伊佐朗著 |
瀬戸の地引網は終焉を告げたが、綱不知と江津良の網は、長く続いた。 この二統の地引網が江津良の浜と崎の北浦の二ヵ所を、毎年正月十三日抽籤して順番を決め、その年の漁期七月末までの間二日交代で昼間専門に操業する。 江津良では七軒の漁家が一統を持ち、綱不知では二十軒の漁家が共同で一統を持っている。 網の構造はどちらもだいたい同じで、袋口四尋に、四尋の長さの袋をつける地引網で、網の高さは江津良は七尋、ツン知らずは五尋半。 袋を中心に片方に身網五〇尋、荒手網五〇尋、鵜毛縄(ブリ)三束(一束四〇尋)、引網四束(一束四〇尋)と、これが両方に同一のものが取り付けられるのである。 一統の船団は、網船二隻勢子船二隻で、網船二隻は沖から同時に魚群や、島鯵の来遊する海底の礁を取り囲むように浜に向かって船をこぎ、網を下ろし、網船の作業が終わると、浜で待機していた二、三十人もの漁師や女子の引手たちが、二手に分かれて、手網を同時に引き始め、二時間ぐらいもかかって網を引き上げるのである。 このとき礁に網を引っかけないで、しかも礁についた島鯵を網の中へ追い込みの操作をする船上の漁師は、これが腕の見せどころである。 しかし そんな達人の漁師も、一人減り、二人減りでだんだんすくなくなった言う。 昔ね雨合羽がまだなかった時代には、雨の日は、棕櫚(しゅろ)や藁や編笠をかむって、それ はたいへんな重労働であったと、女の人の述懐である。 賃金歩合は、水揚げの三分の一が維持費で天引き、残り三分の二を船は男子の二人分、女子は男子の〇、七として配分された。 網は綿糸から昭和二五(1950)年ごろから、ナイロン製になり、水切れもよく軽量になり、その後は、荒手網までは船の機会で引き上げるので、浜での引手たちはだいぶ楽になったと言うが、だかだん海が汚れて、今までのように、産卵に来ていた、あふりいかの種烏賊や、島鯵なども姿を見せなくなり、漁期のうちでも操業する日がめっきり減り、昭和三十五(1960)年頃には遂にこの網も終焉を告げた。 注、後文の注を省略した。 |
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