鯔(ぼら)網                    参考文献、白浜の明治編 宮崎伊佐朗著

 大正八年(1919)年十月二十一日、十月になると、子もち鯔のなむら(群れ)が産卵のために、地磯の藻場に押し寄せてくる季節となる。

 瀬戸の浜では網小屋から鯔網を大きな網船に積み込んで、いつでも出漁できる態勢ととのえ、毎日、西地の杉おいさんが、白い紙の幣をかついで鉛山の千畳敷の高見の鼻から、瀬戸の番所の鼻まで、陸からその鯔の群れが、海を赤く染めているのをもとめて歩き廻り、磯近くでその群れを発見すると、鯔や鯔やと大声で叫びながら大急ぎで網元に知らせ、網元では早速乗組みの人たちを呼び集め、網船や勢子船を浜から降ろして出漁する。

 鯔網は、親類の中地の津多佐助家に一統にあり、網は綿糸で網目は大きく、長さ百二十尋、高六尋もある大網で、網舟には五、六人も乗り、数隻の勢子船には、二、三人宛が乗組む。

 網船が素早く群れを囲んで網を降ろさないと、鯔はなかなか賢い魚で、群れのまま逃げたり、網を飛び越したり、網をおろしても、海底で網が一ヵ所でも岩にかぶさって隙間があると、そこから群れて逃げたり、底の岩陰に隠れたりするのである。

 そこで、海底の荒い岩場を避けて、小石などを狙う。

 今朝、杉おいさんが白良浜のみのわの沖で色をなしたなむらを発見、瀬戸の浜は大騒ぎになり、数十人もの人たちが、網船や勢子船に乗り込んで現場に急行、調子よく魚群を網に取り囲み、勢子船が青竹で海面をたたいて鯔が飛んで網の外へ逃げるのを防ぎ、びっくりした鯔が囲った網の大きな網目に頭を突っ込んで刺さるように、その動作を繰り返し、又、五尋ばかりの海底の岩陰に潜んで身をかくしている賢い鯔は、勢子船の兄さんたちが潜って鉄棒の銛で突きとるなど、近年にない大魚で、午後三時頃に、十数隻の船が櫂や青竹を立てて瀬戸の浜へ漕ぎこんできた。

朝から大魚を聞いていたので、学校の放課後、私たちも大勢の友達と浜へ見物に走った。

 網舟は浜へ引き上げられていて、網にかかった大きな鯔を外して横太篭へ入れる人やそれを浜井戸の上手の漁業組合の札場に運ぶ人、鯔の子はカラスミに精製すると高値に売れる貴重品なので、取扱いにもていねいで、札場の広い板の台の上で、何人もの人たちが腹を包丁で裂いて卵を傷めないように取り出す。取り出した二本で一対の卵を浜井戸の水で洗う人、洗ったのをザラ 箱に並べて塩で埋める人、流石に広い浜もごった返している風景で、こんなことは村はじまってのことやと、漁師のおじさんたち張り切って、日没後も、臨時に数ヵ所も電灯をつけて夜おそくまで作業が続けられた。

 雌鯔はどけも、八、九百匁もある大物で、腹子が八百もあり、このカラスミ二千円にも売れ、雄鯔も千尾ばかりあり、それに腹子を出した殻も塩漬けして、田辺から定期船で大阪へ出荷して、千円はあったと。

 網元の津多から父が塩鯔を二尾もらってきて、我が家も大魚のおかげをこうむった。

 カラスミは塩して二、三日たってから塩を水でよく洗い落とし、雑物など取除いて晴天に、二。三日干し、後は飴色になるまで陰干しにすると立派なものができ、これは支那へ輸出される貴重品だとのことである。

注、瀬戸の鯔網で有名だったこの網も、昭和17(1942)年頃には人でもなく、綿糸の網の耐用年数もきて、いつとはなしに操業されなくなった。