鯖延縄漁                 参考文献、白浜の明治編 宮崎伊佐朗著

 明治四(1871)年頃の鯖延縄漁は、四、五人乗組みの三、四十石(三、四トン)

船で、特別に県権令から出稼漁船の鑑札を受けて、終年、日置、周参見、江住、串本、古座川辺までも、三挺櫓を漕いで出稼漁に従事し、出稼ぎしない漁船は、地先の漁場で稼いだ。

 鯖延縄は一桶二〇〇尋(ヒロ)の縄に一尋半の間隔で百本余の枝鈎をつけ、一回の出漁に一〇桶くらいをつないで所々にボンテン(浮子桶)をつれて流す。

 縄の最初と、最後のボンテンには竹竿の先に船名を書いた白や赤の布切れを付けて見やすくする。

 餌はたいてい、塩漬けにしたキビナゴである。

 鯖漁は、秋から春までの漁期が、寒鯖の本命である。

 出漁の時は全部の漁船が瀬戸の浜に集まり延縄の絡み合いを防ぐために抽選で順位を決める。

 その籤引きが終わると、日没前に四、五人乗組みの漁船が一斉に、三挺櫓をこいで出漁、四双島沖の瀬戸ケ瀬礁の漁場につくと、二丁櫓に切り替えて潮流に向かって、平行に縄をおろすのである。

 その頃には船の舳先の右舷に取り付けた鉄製の受皿の上で、用意していた油松をたいて漁火とし、その明かりが枝針に餌を付けたり、縄さばきの手元火となり、又、他船との衝突を防ぐ信号灯ともなる。

 その晩の天候や潮流などを船頭が判断して縄を一〇桶全部下ろすか、八桶にしたりと決めて、下ろし終えると、船を最初のボンテンに引返して縄を引き上げ、最後のボンテンを引き上げるまでの所要時間は四、五時間、一回限りの操業でである。

 闇の出漁の時は、出漁船の家族が輪番で、倉の鼻の山上の台地で、松材を焚いて、その火を目印に出漁船は瀬戸の浜帰り、船を浜へのぼし上げて、浜で待っていた家の者が提灯をつけて、用意した横太篭に漁獲の鯖を入れ、浜の魚市場に運ぶ。

 市場は係りの者がホラ貝を吹き鳴して魚問屋を集めるのである。

 当時の魚問屋は、佐七、田芝、与吉、大門、与七の五軒。

 魚市場も松材をたいて明々と明るく、次々と運び込まれる横太篭で広い市場も軒いっぱいになる。

 問屋たちは、その晩の鯖の大きさや生きなどを見て、代物がよいとて、三銭入れ、二銭五厘引きなどと一貫目の値段を入札して、一番値を高く入れたも問屋が、その晩の鯖全部を買い付けたことになる。

 市場係りが漁師に手伝ってもらって、横太篭の魚を秤で量り、その都度大声で、何丸何貫何百と言っては、矢立ての筆で、大福帳に控えては次々とかけるのである。

 競り落とした魚商は、量り終わった魚を早速く家へ運んで、家の作業場で、塩漬ゃ塩開きに加工する。

 延網漁の賃金歩合は、餌代や雑費を引いて、売上げの三分の一が船主で、残り三分の二を船頭が二人分として乗組み漁夫に等分された。

 鯛網を操業するとき、ボンテンは最初と最後の二ヶ所につけ、縄を海底に沈めるために、ところどころに小石をつけた。

 魚問屋で塩仕立ての新しい鯖や、漁師が釣って船のかんこ(水槽)に生かした鯖などを大型漁船に積み集めて、三挺櫓を立てて大阪のざこば(魚市場)に運んで、瀬戸鯖と人気があり、それが瀬戸の漁師たちの自慢で、浜にも活気があったが、明治二十二(1888)年八月十九日県下を襲った大水害で海況が激変、漁場が荒廃、瀬戸の漁師の鯖漁は終焉を告げ、漁場を失った漁師たちは、後に、帆船乗りや、阪神地方への出稼ぎに出る者が多く、古老たちの瀬戸鯖の自慢の思い出が残るだけになった。