年 表、西暦1800年から明冶時代前まで

西暦

年号

 

1800 寛政 12 5   大阪商人祐吉、湯崎で湯治する
1801 享和 3 22 田辺・多屋平次湯崎へ入湯に行く
4 12 紀藩福本藤十郎・浦上大七、入湯のため田辺より湯崎へ渡海
9 13 紀藩村上与兵衛・同彦右衛門親子湯崎へ入湯する

1802

享和

2

3

26

幕府の医員小野蘭山採薬係御用として來巡。

   26日田辺江川から湯崎

   27日千畳敷から富田村

   28日富田村〜富田坂〜仏坂〜周参見

1802 享和 2 5   菊池西皐、鉛山に遊ぶ 「三山紀略」
1803 享和 3 8 5 田辺袋町年寄九兵衛鉛山(湯崎へ湯治に行く)
1805 文化 2 7 24 天文方役人坂部貞兵衛、湯崎より来り田辺湾測量
1807 文化 4 12 29 難船一隻綱不知へ漂着
1808 文化 5   俳人松尾塊亭、白良浜に遊ぶ
1809 文化 6 3 10 紀藩勘定奉行土生広右衛門の一行、巡在の途次湯崎に立寄り富田中村に泊まる
    この年、瀬戸浦ボラ網一帖新調、都合二帖となる
1810 文化 10 5 3 浄るり語り淡路厚太夫鉛山へ来る
1812 文化 9 8 26 鉛山村御書祭の行列踊復活願いで、許可される
1813 文化 10 2 27 三栖組大庄屋真砂幸右衛門、鉛山入湯より帰宅
3 19 田辺組大庄屋田所八郎左衛門、鉛山(湯崎)へ入湯の願書許可
1814 文化 11 1 28 田辺・楠本定右衛門湯崎へ入湯に行く
3 12 風土記編さん役人小原源三郎ら一行五名、田辺より鉛山へ渡海
4 7 藩士長井佐之右衛門鉛山入湯中につき田辺組田所八郎左衛門ら見舞いに行く
1815 文化 12 2 22 田辺・楠本定右衛門湯崎へ入湯に行く
3 13 田所八郎左衛門の隠居、鉛山へ行く
3 25 田辺町大年寄多屋平次、鉛山へ入湯に行く
5 20 西ノ谷村庄屋安宅川弥六、鉛山へ入湯に行く
1816 文化 13 2   瀬戸綱不知直乗船頭孫兵船、。宇久井浦沖で破船
4   浄るり語り時太夫鉛山へ来る
1817 文化 14 2 摂州大阪船、湯崎沖で破船
3 13 田辺本町年寄善右衛門鉛山へ入湯の願書許可
9 8 田辺・玉置長兵衛鉛山へ入湯の願書許可
1818 文政 2 多屋平次、鉛山へ入湯の願書出す
1819 文政 2 正月 土州船瀬戸崎と思われる沖合いで破船
1820 文政 3     この年、本覚寺庫裡改築
1821 文政 4 8 4 大風雨、富田川洪水
1822 文政 5 9   田辺・岡本六左衛門鉛山へ入湯に行く
1823 文政 6 10 2 岡本六左衛門、鉛山へ入湯の願書許可
    この年、四月から七月にかけて一〇八日あまり干天
10 24 比井崎で難船の泉州淡輪浦町船、瀬戸村へ漂着する
1824 文政 7 閏8 25 紀藩お女中衆、湯崎へ入湯
3 28 印南沖で新宮鵜殿船破船、乗組員瀬戸村に上陸
7 28 十五代領主直馨、瀬戸・鉛山へお成り
1825 文政 8 2   田辺の藩士天野群八郎、鉛山村温泉に入湯する
1826 文政 9 2 13 紀藩お女中衆、湯崎へ入湯
1827 文政 10 2 2 摂州船瀬戸崎で破船
4 24 田辺・榎本円兵衛鉛山(湯崎)へ入湯
1828 文政 11 1 15 日ノ岬沖で遭難の尾州船、瀬戸綱不知へ漂着
6 18 紀藩お女中衆、湯崎より渡海、田辺に着く
1828 文政 11     小原良直
1832 天保 2 10 5 田辺・原和右衛門鉛山(湯崎)へ入湯に行く
1832 天保 3 10   仁井田好吉「湯崎温泉」の碑文を撰書する
1833 天保 4     この年より瀬戸浦と江川浦争論、前後三年に及ぶ
1834 天保 5 5 10  国香軒蘭秀、湯崎に遊び入湯する「温泉日記」
1837 天保 8 4 18 瀬戸・鉛山両村へ米麦を売った田辺の商人六名処罰される
8 21 朝市江崎沖で破船の尾州船の乗組員、鉛山村に上陸する
9 27 田辺大年寄玉置休助、湯崎より帰る
1838 天保 9 8 27 玉置休助、湯崎鉛山へ入湯に行く
1840 天保 11 8   名物からすみ由来
      10 30 比井崎で遭難した土州船、瀬戸村へ漂着
1841 天保 12 9 25 久野丹波守、湯崎へ入湯
1843 天保 14

8

14

盗賊方池永源蔵下総国の強盗友五郎及びその父銀太郎その義子貞太郎の三名を湯崎に捕縛す

12 24 夜三州船、瀬戸村沖で遭難
1844 弘化 2 17 四代豊竹湊太夫湯崎において没す
1845 弘化 2 11 18 尾州船湯崎沖にて遭難、袋浦へ入津
1846 弘化 3 9 20 水野丹後守湯崎へ入湯する
11 22 夜神戸船(菱垣回船)瀬戸村沖で破船する
1847 弘化 4 4 2 神子浜村庄屋七右衛門湯崎(鉛山)へ湯治に行く
9   鉛山村で興行中の女狂言芝居若者の見物差し止め
11 26 夜大阪の御城米船、瀬戸浦沖で破船
1848 嘉永     この年、難船した淡州船、綱不知に入津
1849 嘉永 2 3 4 紺屋町年寄助左衛門湯崎へ入湯
1850 嘉永 3 1 5 夜阿州船、綱不知へ水船にて入津する
8 20 難破した淡州船、綱不知へ水船にて入津する
10   万代記(八六〜一〇五巻)完成する
12 16 湯崎へ入湯した帰りの和歌山商人五名江川浦に泊まる
    この年より瀬戸村堅田村と山論、前後四年に及ぶ
1851 嘉永 4 2 28 田辺・原秀七(和右衛門)鉛山へ入湯の願書出す
1852 嘉永 5 3 28 田辺・多屋平太夫鉛山(湯崎)へ入湯に行く
1853 嘉永 6 3 27 原秀七(和右衛門)鉛山へ入湯に行く
1854 安政 9 15 瀬戸沖に異国船現れる
1854 安政 10 17  田辺領に移管(田辺領に復し田辺組に加えられた)
  鉛山村八石四斗の拝借を願いでる
11 4  11/4〜5、大地震大津波、湯崎温泉湧出とまる
11   本覚寺本堂建築
1855 安政 2

6

 

この月石田図書をして○鴣菜海綿及他の海物国産となるべき物を沿海の地に探索せしむ○鴣菜は獲ること能はされとも海綿若干俵を綱不知及富田海岸の地に獲たり

8 30 大風雨出水高波のため鉛山温泉場往来道筋破損

1856

安政

3 4   崎の湯を除き鉛山温泉湧出回復する
  2 田辺・多屋平次鉛山へ入湯願書出す

9

20 田辺南新町大年寄格那須小八、鉛山へ入湯に行く

23

夜瀬戸の大火、二八軒焼く

1857 安政 4 2 19 田辺領家老一二〇人瀬戸鉛山両村の台場を見分
10   海岸深浅調査行われる
1858 安政 5 5 17 和歌山の家老たち瀬戸鉛山海岸を見分
8   市ノ瀬村卯之助、鉛山村の古鉱穴再堀を願い出る
  瀬戸浦と朝来帰見草両浦と鰡網紛争深化
11   瀬戸鉛山両村損益割賦争論おこる
1859

 

安政

 

6

 

1 29 瀬戸村藤七漁船、沖合で破船三名水死
2 28 瀬戸村で火事

4

 

 晦日目良羽山坂本の三医と共に富田及鉛山等に渡航して病者を求む得ること能はすして帰るその法は唇部を刺して血を出すのみ

10   瀬戸鉛山両村馬ノ一原開拓願い出す
    この年6月、瀬戸鉛山両村の人口一、三八八人
1860 万延 3 23 伊勢の儒者斉藤拙堂湯崎に泊まる「南遊志」
28 江川浦虎吉、湯崎沖で珊瑚樹らしきものを水揚げする
7 11 湯崎温泉場及び往来道路、高波のため大破する
8 24 田辺・楠本久太夫鉛山へ入湯に行く
1861 文久 11 25 夜日高阿尾浦新五郎船、瀬戸沖で破船
1862 文久 2 4 30 夜備前国通生村の佐次郎船、畠島付近で破船
5 1 夜大風雨高波、瀬戸鉛山両村被害多し
7 19 志州鳥羽船(異国形造の御手船)綱不知湊へ入津
閏8 23 田辺・脇村市太夫鉛山へ入湯に行く
12   瀬戸・鉛山両村社事書上げ
1863 文久 3 3 22 熊代繁里、鉛山に入湯「鉛山入湯日記」
9   瀬戸村新規年貢免除願い出す
  瀬戸村戸数179軒、鉛山村戸数67軒
    この年瀬戸・鉛山村、再び口熊野周参見組へ編入される
1864 元冶 8 11 楠本久太夫鉛山へ入湯に行く
9 12 脇村市太夫鉛山へ入湯に行く
1865 慶応 3 7 田辺・藤木新次郎、鉛山へ入湯に行く
  22 淡州船(八幡丸)湯崎沖で破船
7 16 横浜より長崎へ航行中の英国船、江津良付近へ祝砲を発し一時上陸する
9 17 田辺組大庄屋田所八郎、鉛山へ入湯に行く
1866 慶応 2 8 7 夜大風雨あり
8 20 江津良沖に英国船碇泊する

 

 

 

 

 

正月西ノ谷村 天神山に斥候所を建つ、これより先に瀬戸崎にありし物廃すれはなり先鋒隊士(与力)猶交番にこれを守る

1867 慶応 3 4   阿波牟岐浦船難破、瀬戸浦へ漂着
11 28 田辺地方にも「ええじゃないかおどり」波及する
11   備前船瀬戸浦で破船
          青紀は 。 田辺沿革小史