南海大地震 昭和21年12月21日

 午前四時二十一分頃、突然大地簾あり。(注・嘉永七年(1854)十一月五日の大地震より九十二年目にあたり、震源地は潮岬西南方の沖の海底、後日南海地震と呼称される。

 余震続き、電灯は送電線切断され消える。南西沖合から海鉄砲のような音が無気味にきこえ、空に稲光が絶えず、これが津汲の前兆だったのか、初震より十分後の四時三十分頃津波の第一波来襲内湾の入江になった綱不知、立ケ谷方面ことの外被害甚大にして、綱不知地区においては十四名もの死者と、家屋の倒壊流失するもの多く、全戸床上浸水する。

 第二波の潮位最も高く、大潮水準線より四メートルにも及び、県道の白島掘割り近くまで達し、又引潮の時は湾内の浅瀬は殆んど露出し、大蛇島と同小島の間は全部干上がったことを同地の岩城惣八氏が確認された。

此の日余震三十数回、津汲の満干も終日繰返し、漸次回復したが、地殻の変動で地盤が約七〇センチも沈下した。

 串本地方は当地と逆に隆起したと伝えられる。

 立ケ谷湾では、その湾口の大正十五年九月に架設された巾員六メートル、全長一五五メートルの石垣積土橋の霊泉橋が、その基礎ごと崩壊して跡形もなく流失して、この橋に併設されていた白浜水道会社の水道本管も橋もろとも流失し、陸上の交通途絶と共に水が一滴も送水できぬ最悪の事態となった。

 白浜地区でば松林の防潮堤を乗り越して津波がおし寄せ、浜過りや御幸通りの下堀、上堀地帯は水浸しになる。

進駐軍の宿舎になっていた白良荘には、アメリカの将兵が宿泊していたが、床上浸水で大騒ぎとなる。

 瀬戸地区では、昭和四年に新設された海岸の臨海へ通ずる御幸道路が処々で寸断され、漁船の流出破損するもの多く、津波の最高は芝の門では芝井戸の上手本覚寺近く、うとんの門では小学校前の稲荷神社の近くまであがり、引き潮の時は漁業組合の防波堤近くまで引いて、みんのしるの瀬や笠島がその底まで露出した。

 江津良地区は奥まった入江でないために幸い津波の逃げ場があり、その故で他の地区に比べて被害が少なかった。

 湯崎地区では、海岸道路を越した津波で床上浸永四〇戸に及び、町営浴場の「まぶの湯」 「浜の湯」 「崎の湯」の建物が大被害をうけた。