天下第一牟漏の崎の湯 昭和9年8月23日記 |
牟漏の温湯また鉛山温泉とも云ふ、今の紀南湯崎温泉である。伊予の道後、摂津の有馬と共に、本邦三古の銘湯である。斉明、天智、持統、文武四帝の行事あらせつる事は、書紀、 続紀などに見えてさだかである。今に御幸の芝、御船山などゆかしい地名が餞ってゐる。 紀の文学祇園南海は.七景の詩を賦し、津田香巌は之に五泉を添へて十二景とした。紙尚濂更にまた六景を詠じて父に和した等々、名所として來歴は遠くかつ豊かなるものである。 昭和八年七月九日と十日の両日、予は湯崎区の招請によつて、七湯の随一崎の湯の施設を企画し、 豫て約するところの京大名誉教授武田吾一博士と行を共にした。素より博士に依嘱して史實と風光とに適うた美の建築を成さんがためであり、荒天岩を噛む熊野灘の波浪を受けで自若たる力の建築を 得んがためであつた。 海に濱して湧泉の存すること既に欧米に比して甚だ珍である。況んや千畳の磐巌洋中に突出せる岩鼻に千 古の霊泉を湛ふるに於いてをや、正に世界の第一であらう。泉質浴に適ひ飲に敵ふ。願つて浴し祈つて酌めば、千歳の寿は難しとするも、百年は蓋し容易であらう。 紺碧に線青を交へた潮の色、変化窮りなき海岸と島嶼との錯綜美、熱帯植物の数、海産物の豊、今上陛下の行幸を仰いで、千年の光輝は更に頓に加はり、細島には南方翁の句碑が建てられた。 一枝も心して吹け沖つ風わが 天皇のめでましし森ぞ 鰐珠の窃窕、合歓の艶麗、濱穂の楚々、濱木綿の純潔、至るところに黒潮の遠鳴が、そゞろに挨拶を送つて、御代の弥栄を唱へつゞけでゐる。 このよきところ、この崎の湯に、千年を期する天平式の湯狭屋が成って、温泉の処女性が、充分に活用せられ、泉霊の放率が充分に発揮せられる。この快哉、それこそは蓋し吾人人間以外には享け得ない天緑であらう。(昭、九、八、二三、記) 紀の国の崎の岩根に出づる湯を酌みて千年の齢かためよ 玉きはる命さゝげて皇国(すめくに)の医師(くずし)の道は吾等守らむ ま白良の濱の濱木綿花咲けば濱穂も波もみな光なり 注、旧漢字でんい文字は、当用漢字を使用した。 |
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