菊地 西皐 三山紀略之一節 大体の意味

 鉛山の地は海を枕にして山を着て寝ているようで、田畑が少し開けている平民の村である。昔は、年貢として鉛を掘って納めるのを本業としていた。今は農業漁業に代わっている。一般には「湯崎」と云う。土地に温泉が湧くからだ。近村は勿論、遠国から入浴に来る者が年中絶え間がない。六つの温泉が海の近くにある。館泉(やかたゆ)・濱泉(はまゆ)・源泉(もとゆ)から二三十歩離れて西南の岸に寄り添っている。そして、雑草が覆っている所は碕泉と言い、ごうごうと海風が鳴る所にある天然の石の桶は、五石の桶に似ている。湯は右桶のひび割れから湧き、温かく硫黄の臭気もなく光輝く鏡のようだ。冷水の所は浅くて濁ってっており、客は足を洗うだけである。温泉は東北の巌の下にあり、潮が浴室を洗う時もある。
 私は千畳厳に遊んだ。以前からその景勝は開いていた。旅館を出ると、南に薬王堂がある。そこから西に谷を越えて丘に上った。又下ると海岸に出た。奇怪な石が多い。大きいものは数百人も座れそうだ。近くでこれを見ると全体の石は一つの赤色巌のようだ。風雨が打ち付けている所のさまは龍の首に似ている。巌の下で雨風を避けられるのは龍口巌である。事模様で霊芝の形をしているのは芝雲巌である。それが最も大きい。その他、飛び掛かったり掴みかかったりしているような巌が何もない谷間に並び立っていて、まだ名前もない巌は数えきれない。たまたま、夕日が海面を照らし、風波が突然起こり、どこまでも青黒い海原が瞬間に現出し、百千の白馬が雪を蹴って空駆けるような景色が見られた。浪の勢いが巌を噛み、巌は益々奇怪になっている。そこで私は「木玄虚海賦」の実景を見た思いだ。その言葉に偽りは無かった。観潮の壮大さはここに極まった。南の崖は石が割れており、壁は千丈(30.3m)余り。壁に穴が数箇所ある。これは金鉱の跡だと云う。潮が満ちると皆没してしまう。案内が云うには、夕暮れから「うの鳥」が穴に集まる。地元の人は縄を懸けて崖を下り暗闇に乗じてこれを捕る。聞く者は心震える思いだ。
 次の日、灘波(瀬戸)に遊ぶ。右岸より下って乳石の間を歩く。左を見ると、百歩ばかりの所に一つの巨岩が高く輩え、中は空洞のようだ(円月島)。右手の松林に入り、小さな屏風岩を越えと、広々とした一境が開け、内海に臨んでいる。(田辺湾)
 小島が三つ四つその中に突き出ている。絶景を争っているようだ。太陽は巳に西に傾き、微風も起こらない。縮緬模様の波が自然に模様を描いている。海岸から離れた諸山は黒々と重なっている。それらの景色すべてを夕もやの海面夕日の中に逆様に映している。東北方面に田辺城を一帯の浜松の向こうに見る。左手に岸を回って歩く。巨石が門のように立っている。高さ五丈(15.15五メール)ばかり、横と云う。その左は丘に連なり、右の足元は海に没している。すでに門に入ったが、数歩にして又一門を見た。大きさは前のと同じ位だ。そこを出ると、海上に奇巌があり、唐嶋と云う。
 垣のようにも見え、屏風のようにも見え、三つの窓がある。帆船が島の外を通ると、島の窓の中に美しく映る、その大きさもそれで知れる。夕日は巳に西の山に沈んだので帰途についた。道々七鉱山下を通った。白砂は雪のようで、一歩一歩に人の心を雪かと迷わす。各々その砂を掬って旅館に帰った。
 宿の主人は和佐氏、名は長で、そこで祇園南海の七境詩の巻を拝見した。持は奇抜である。書も又、力強い筆である。鉛山七境の称号はは昔からあったのだろうか。先生がこれを初めて名付けたのだと思う。山を赤く彩色し、林を美しく描く文人の遊びは時には昔同じだ。その巻末に「享保一八年孟夏下浣」とある。今から五十余年前のことだ。文人の楽しみは皆同じだが、及ばないには文章力だけだ。そこで鉛山で作った詩を二首書いて主人に与えた。いわゆる鉛山七境は、銀沙歩、金液泉、芝雲石、龍口巌、平草原、薬玉林、行祉宮であると伝えられている。斉明天皇以下多くの帝が昔からここにご来浴なれた。宮址は今もなお残っている。思うに灘渡は巧麗以て知られ、千畳巌は奇雄を以て景勝地となっている。今もその優劣をつけることはできない。この度の旅行では私どもの満足感は最高であった。独り同行の兼良夫氏が家族から手紙がきて一足先に帰ったが、その日の風景もまた寂しそうであった。
 鉛山に来た時は印南清から船を仕立ててここに着いた。その船旅の途中での景勝地も少なくなかった。が、これらをすぺて記載する時間も無い。
 (以上五月二日までの紀行文)

<私の備忘記録>