1697年ー元禄10年10月29日の大火により、遠いマブ湯と崎の湯が焼失を免れたと思います。もう一つ考え方があります。

薬師堂については、焼失を免れたのか、焼失したのかは不明ですが、この大火の報告は、人家7軒残るですから薬師堂も火災にあったと思います。

地図を作成するときに、湯屋や寺の建物がないものには、その焼跡に○だけで、その位置を示し、その横に再建するかどうか、わからないのでテラや湯の記号らしいものを記載したと思われる。

1703年ー元禄末・紀南郷導記

       鉛山の4湯と薬師堂の記載あり建物が完成していたと考え

       るが、2寺と山神社の記載がないのは建物がなかったと考え

       ます。

 瀬戸古事本文の中に「一、えぞらと云ふ船着き有り。ただし近頃はみなみなえづらと云ふ。」と 「一、かさなぎ浦 今綱知らずという」と記載があり ます。

 瀬戸部所有の古図には「えづら浦」と「綱不知」と記載があり瀬戸古事に云う古い地名から新しい地名に瀬戸部所有古図もなっていることから、瀬戸古事とは、近い年代であることが伺われる。

 しかし、紀南郷導記には「瀬戸浦より(略)、瀬戸より北の浦つゞき東へつたひ田尻、綱不知、在家有、風莫濱はつなしらすと云ふ名也と、(略)。」と記載があり、瀬戸部所有古図が紀南郷導記に近い年代であること も伺われる。 が、浜の湯の記載がない。

 (近代は磯辺の浜に、浜の湯とて出来たり、瀬戸古事)

1733年ー祇園南海の鉛山紀行には「嶋」の文字あり、

       地名などでは江津良、平草原、本覚寺、藤九郎

1769年ー明和6年、この年、来迎寺境内に観音像建立

1771年ー明和8年の願状

       この記載に「先年マブ湯と崎の湯が藩のお召し湯と記載あ

       り」

1776年ー安永5年金徳寺本堂再建と思われる。

 (近き頃、新湯できる。瀬戸古事)

1782年 天明2年、瀬戸古事の成立

一の推測の結論で、これ以上の資料が見つかりません。

尚、新資料が見つかるまで、このままにしておきましょう。


最終結論

平成15年12月27日、和歌山県立図書館より、下記の書籍を白浜児童図書館のお世話により取寄せた。

 書籍名 校訂 紀南郷導記 

 著者児玉荘左衛門 監修池永浩 編集者楠本慎平

 発行所紀南文化財研究所

 昭和42年11月3日 

下記は、上記の書籍を参照した。

紀南郷導記の成立年

 記述要約1、「(前文略)、元禄2(1689)年になったものであるとするのは

        ごくであり、(中文略)、しかし、問題がないわけではない。

         (後文略)

御殿について

 記述要約2、「先君の御殿有りしが、今は廃せられるなり」

  と記載あり。

以下は、私の一の推測のまとめ。

一、1643年ー寛永20年9月3日に遠見番所開所されています。

二、1650年ー慶安2年御殿場。

三、1682年ー 常燈番所は天和2年〜

四、1689年ー元禄2年紀南郷導記

 記述要約2のように、御殿がなくなっているのに、この年以後に瀬戸浦絵図が作成されたとは、考えられず、1682年以後1689年以前に作成されたと考えるが、下記の問題点の中で、さらに推測します。

 上記の年間に作成されたとして、先に記述してきた、問題点の風呂の湯名の記載がないのとテラ、テラの問題点について

@、湯名の問題点

1771年ー明和8年の願状

 この記載に「先年マブ湯と崎の湯が藩のお召し湯」と記載あり。

 この地図は、藩の所有または管理するするものを記載したとも考えられる。お召し上げになったマブ湯と崎の湯は湯名を記載して、他の三つの湯には湯名を記載しなかったとも考えられる。

 しかし、浜の湯と思われるのが足りないのと、先年の解釈は、問題として残ります。

A、テラ、テラの記述の問題

紀南郷導記には、本覚寺、金徳寺、来迎寺、山神社、蛭子神社がありませんが、瀬戸浦絵図には山神社の記載がなく、他は記載があります。

白浜町誌・下巻一・本編・年表によると

「 金徳寺は貞享4(1687)年、寺号が定められ、本尊の安置認められる。」と、

又、

「本覚寺は慶安年間1648年から1652年頃現在の場所へ移転」と記載されています。

この記述から、さらに考えられることは、寺号がなかったと思われる貞享4(1687)年以後と考えられます。

したがって、天和2(1682)年以後から貞享4(1687)年以前と考えるのが、自然な考えでしょう。

以上が私、一の推測のまとめですが、ご意見など下さい。


下記は前のページに記述したまとめ。

二の推測

常燈番所は天和2(1682)年〜

1782年 天明2年(1782)、瀬戸古事

1794年までに作成と推測される。

1794年ー三山略之記の6湯名(館泉、浜泉、源泉、碕泉、淡泉、礦泉)の記

      載

      湯印の○が二つ増え、これ以降の作成は考えられない。

1817年 文化10(1839)年に紀伊続風土記成る。湯崎七湯記載あり。

1857年 安政4年10月、下記のように海岸深浅調査が行われています

常燈番所は慶応2(1866)年まで。

<まとめ>

記述要約2のように、御殿がなくなっているのに、この年以後に瀬戸浦絵図が作成されたとは考えられない。

三の推測

島という文字です。文字の成立ちを調査します。

瀬戸古事は嶋と書いています。

瀬戸浦古図は山冠に鳥と書いています。

調査によると鳥冠の山が本字で山冠に鳥は俗字と書いています。

しばらく、お待ち下さい。

文字の歴史がわかれば、一と二の推測の内で、ほぼ確定すると思う。

<まとめ>

調査中ですが、一の推測のまとめと思います。