燈明台 |
瀬戸崎燈明台の話 湯崎温泉の新開地の南湯崎の燈明平ラの上に燈明台があって、今も雑木林の生い茂った中に礎石などが積まれ、転がっている。 この燈明平ラ(略)、海神怒り風伯荒れる時、三段壁の断崖を前にして、この燈明台は、その頃の航海者の守護神であったろう。 この燈明台のことは、享保18年祗園南海の記行、寛政三年野呂介石の熊野記行草稿にあり、昔はかなり名物だったことが知られ、ところの故老は「幕末の頃まで存続していた」との話あり、燈明台のあったことだけは土地の若い人達も多く知っているらしいが、しかし、それ以上のことは「何分昔のことで」と要領を得ない。 ところが、10月8日の午後、白浜の役場で無駄話をしていると、助役の南伝左衛門(暖亭)さんから「氏の家の本家にあたる南庄五郎家の祖先は庄屋と常燈番(燈明台守)を兼務し、中頃、庄屋職を分家に譲り、常燈番のみを世襲した」という話が出た。 これはあまり世間に知られていないことなので、同月15日、暖亭さんに口添えをお願いして、庄五郎家の代々書を見せていただいた。 (南庄屋の歴代が常燈番を勤めたことの詳細は略した。) この古記録があればこそと感じる。 瀬戸崎常燈ー三段壁の燈明台は紀州藩が瀬戸の南家の世襲として行わしめたのは航海の便にしたのは無論だが、目的は寧ろ海防にあったこと明らかだ。潮岬、江須崎、和深崎、朝来帰の番所崎、それから瀬戸崎、切目崎、日ノ御崎をつなぐ狼煙場として備えられたものと見られる。紀州の海防史を知るものは、すぐにうなづけることだ。 さて、燈明台の址、わづか5坪あまりだから、幸い眺望の地でもあり、南湯崎の名所であるから、土地経営者の手で保存、顕彰の方法を講じてくれればと思うのである。 参考文献 紀南の温泉 唱和11年11月 参考文献 南紀雑筆 椿の葉巻 著者雑賀貞次郎 昭和13年5月19日 白浜の三段壁に燈明台があり毎夜点灯して航海の便をはかり、また、烽火台を併設して非常に備えた。 何時から初めたかは分らぬが瀬戸村庄屋6代(南)福左衛門が天和2年に常燈番を仰付けられた時が、恐らく最初であろうと思われる。 (南庄屋の歴代が常燈番を勤めたことの詳細は略した。) 天和2(1682)年から慶応2(1866)年まで南藤四郎5代185年間常燈番を世襲したことが明らかで、常燈明もこの間点火をつづけたのである。 参考文献 白浜温泉史 昭和36年4月5日発行 南紀湯崎鉛山之図を参照して下さい。 南紀湯崎鉛山之図には燈明堂とあり、享保18年祗園南海の記行は燈有火樓、寛政三年野呂介石の熊野記行草稿には燈籠樓と記載されている。 |
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