昭和4年5月 日の大阪毎日新聞紀伊版(航空写真)「行幸を待つ綱不知全景」

 写真向かって左の桟橋のようなものが船に接続され、その前に一隻船があります、大正15年1月28日、網不知の島与一氏が垣谷の入江に帆船を改造して牡蠣船龍宮庵を開業(村の日記)。 と記載がありますが判別は出来ません。

 写真向かって右の長い橋のようなのは、昭和4年4月7日、綱不知桟橋附近浚渫工事のために仮設されたものと思います。

 この区切りl橋ような先は、丸山の崎まで続いていたのでしょうか。

 昭和6年7月10日、綱不知埋立起

 綱不知住人三十五人より、三軒家の鼻地先海面二三、五九四坪の埋立を昭和四年九月申請中のところ、本年五月二十一日県知事より免許され、埋立工事にかかる。

  附近の山を切り取った土石や海底の砂をサンドポンプで吸い上げて埋立てるなど、大掛りな工事である。


 私、思うに、「昭和4年4月6日、天皇陛下網不知に御上陸ときまる 」、「昭和4年4月7日、綱不知桟橋附近浚渫工事 」、「昭和4年9月埋立申請中」、この三つの記録から推測できることは、上陸地点が決定した日の次の日から浚渫工事開始、全て事前に埋立が計画されていたと考えて当然で、この事前 埋立計画の時、地元との話合いがなければ、3ヶ月であれだけの大きな綱不知丸山など埋立て計画がなされたでしょうか。おそらく、昭和4年4月7日の浚渫工事計画時点から、同時に昭和4年9月申請の計画はなされていたと考えるが妥当だと思います。

 何れにしても、この浚渫工事が基因 となって、昭和6年7月10日の綱不知埋立起工 となったのではないかと思っています。


 後日の調査結果 2005-03-30

 やはり、上記のように、「丸山の崎まで、堤防が続いていた。」と 云う。だが、それは昭和6年7月10日から浚渫工事が始まった綱不知丸山埋立の時の話だった。

 私、思うに、海中に杭を立て橋と思っていたが、綱不知の丸山など埋立と同じで堤防と思われ、浚渫した土砂を堤防内に入れたと思う。

 堤防だと思う理由は、昭和4年4月7日から開始された県の綱不知桟橋浚渫工事の工事方法と同じ工事方法で、昭和6年7月10日から綱不知丸山など埋立工事がなされたと思っています。

 上記のこととすると、綱不知丸山埋立工事が坂田から工事開始されたと云われてていますが、既に綱不知桟橋側が昭和天皇上陸までに県の浚渫工事によって、ほぼ完了されていたので、その工事が坂田から行われた理由が理解できます。

 綱不知丸山など埋立については、昭和天皇上陸決定以前から、県と村等、強い力が働いて、県の桟橋浚渫工事のことについて、事前に地元との話合いがなされ、 それが基因となって綱不知丸山埋立などの工事がなされたと推測するのが普通の考え方だと思う。


 参考資料 東白浜温泉土地株式会社パンフレット

 参考文献 村の日記

 @、昭和4年4月6日、天皇陛下網不知に御上陸ときまる

 本村に行幸と決定されてから、その御上陸地は崎の浜か、崎の北浜かと取沙汰されたが、綱不知桟橋に御上陸、御徒歩を以って臨海研究所へ御出で遊ばすことに決まったと発表される。

 A、昭和4年4月7日、綱不知桟橋附近浚渫工事

  桟橋附近、土砂流入して浅くなっているので、本県の浚渫船が来て本日より工事を開始された。

 B、昭和4年5月 日の大阪毎日新聞紀伊版(航空写真)「行幸を待つ綱不知全景」

 C、昭和7年頃の白浜温泉土地株式会社 白浜経営土地図(下記図面は全体図のカット部分)