田辺湾内

 五万の奉拝者を海上輸送
 奉迎の関門たる行幸地対岸田辺町では田辺大浜と文里の両港より綱不知と立ヶ谷に向かっておよそ60隻の発動機船をくり出し31日は夕刻から田辺町附近から参集した数万の奉迎者輸送につとめと立ヶ谷には臨時に六ヶ所の仮桟橋が急設され行き交う船舶はふなばたを接するばかりである。

 田辺湾内に停泊の大井以下警備艦より一斉に照射された探照燈は相交錯してこれらの輸送船を照らし出し、田辺、文里埠頭の奉迎イルミネーションと相対して海波に映え、不夜城の壮観を呈した。

 かくて一日午前三時ごろから五時にかけて各船着場は奉迎者の山を築き午前六時ごろはほとんど大部分の輸送を終わり五万人内外の奉迎者は定刻までにそれぞれ奉拝個所につくことができた。 

満船飾の漁船など

 綱不知湾内の賑い

 奉迎準備全く成った

 瀬戸鉛山村では31日天候が持直したので歓喜してまだ夜のあけやらぬ綱不知湾内に発動機船の爆音が入り乱れて奉迎者を運ぶ発動機漁船や警備船が小旗押し立てて満船飾五、六十隻威勢よく発着札を以て混雑防ぎ第一線の警戒線に警官、第二線に西牟婁郡軍人連合分会長尾崎中尉の指揮する軍人団、第三線に西牟婁郡内公設消防団が今朝そのままの配置で予行演習を行った。

 千名の高齢者奉拝

 十里の山坂越して榎本翁の頑脚ぶり

 瀬戸鉛山村御警衛本部前広場の高齢者奉拝所では約三百人の老人たちが空模様を案じつつ一夜を明かして光栄の日を迎えたが午前五時ごろまでに約一千名の高齢者が御幸を待ち奉った。

 最年長者は日高郡中山路村榎本宇之助翁(87)で十余里のけわしい山坂をただ一人で瀬戸鉛山たどりついて頑健さに人々を驚かせ眼鏡もかけずに新聞を読んでいた。

 上記、大阪毎日新聞 昭和4年6月2日 参照

 注、全記事の文章を記事の内容を損なわないように修正した。2005/04/20

 海底の果報もの
  海士のもぐりを御覧になり
   聖上親しく生物御採集
 陛下には午後1時15分研究所を御あとに崎ヶ浜の海浜に御出ましになった、拝しまつれば午前中の御軍服は御召替になって、ニッカー・ポッカーに中折帽の御姿、上にレーン・コートを召された、御座船は僅かに長さ18尺、幅5尺6寸の木船で、白いテントを設け船体もまた雪白に塗られて、すかすがしい装いである。
陛下には御足袋を召されて船中に御着座になり、御陪乗の光栄に浴する駒井博士、眞田嘱託、西園寺御用掛、土屋、木下両侍従ほかに助手1名が御後に候した。
 船夫としては雑賀弥之助、南常三郎、大江四郎吉の3名がカーキ色の揃いの青年団服着て奉仕する。御座船直後に続く和船「ぢのしま」には選び出された誉れの海士正木善松、金谷徳松、田中惣一郎、小山仙之助、今津佐太郎の5名がこれもカーキ色の服を正しく着座している。このころより雨はしとどに降り来た。
 長門の艦えい水雷艇が御座船をとこのこの海士船の2隻を曳航して崎の浜の仮桟橋を離れると、別列にて「をきのしま」には今村侍従武官、海江田侍従、赤塚助教授の3名が乗り別の水雷艇がこれを曳く、やがて御座船が円月島のかなたへと進み岩礁ばかりの四双島の磯近くに停った。すると供奉の「をきのしま」はロープを解いて御座船の後方に位置を占め、京大の学旗をひるがして御けい衛申上げる、御座船直後の「ぢしまの」の海士5名はそれぞれ潜水の用意をととのえて待つほどに、陛下の御指図を受けた駒井教授は御座船からの合図の青旗を振りそれと同時に2名の海士は間髪を容れず陛下に敬礼するとともに、水煙を立てて飛び込んだ、畏くも陛下には新しい白木のはこ眼鏡を水中に差込まれ、その採集作業や海底の美観を眺められた、やがて駒井博士が白旗を打ち振るころ、海士は手に手に獲物を桶に納めて御座船の御側近くへ運び、博士はこれを受取ったのち、陛下に奉る、かくてまた別の海士が飛込み、約30分間で御採集終わり御座船は風光明媚なる番所ヶ鼻を右に奇巖○なる塔島へ進みここでも30分ほど御停船の上御採集になった。
 大阪朝日新聞 6月2日 注、6月1日夕刊

 注、全記事の文章を記事の内容を損なわないように修正した。

 注、○は文字不明    2005/04/21