南海大震災

 昭和21(1946)12月21日午前4時21分頃、突然大地震あり。

 余震続き、電灯は送電線切断され消える。

 南西沖合から海鉄砲のような音が無気味に聞こえ、空に稲光が絶えず、これが津浪の前兆であったのか、初震より10分後の4時30分頃、津浪の第一波来襲、綱不知、立ケ谷方面事のほか被害甚大にして、綱不知においては10名もの死者と家屋の倒壊流出するもの多く、全戸床下浸水する。綱不知、桟橋附近の被害映像

 第二波の潮位も高く、大潮水準線より4mにも及び、県道白島掘割近くまで達し、又引潮の時は湾内の浅瀬は殆ど露出し、大蛇島、同小島の間は全部干し上がったと伝えられている。

 この日余震30数回、津浪の満干も終日繰返し、逐次回復したが、地殻の変動で70cmも沈下した。立ケ谷湾では、霊泉橋がその基礎と水道本管こど崩壊して跡形もなく流出し、陸上の交通遮断とともに水が一滴も送水でない最悪の事態となった。

 白浜地区では、松林の防潮堤を乗り越して津波が押し寄せ、浜通り、御幸通りは床上浸水、また、進駐軍の宿舎になっていた白良荘には、アメリカの将校が宿泊していたので、床上浸水でこの地域の住民と共に大騒ぎとなる。

 湯崎地区では、海岸道路を越した津浪で床上浸水40戸に及び、町営浴場の「まぶの湯」、「浜の湯」、「崎の湯」の建物が大被害を受けた。

津浪による死亡届け14名、重傷者5名、軽傷者31名。

 全壊13、半壊168、流出19、床上浸水369、床下浸水44戸数

 被害総額75,000,000円