@、井戸芝地蔵   瀬戸      Photo/2005-07-04

 A、井戸芝地蔵に向かって右に白く縦になっている部分に「明治18年酉5月築之」

    Photo/2005-07-04

 B、井戸芝地蔵に向かって左下の立てかけている石     Photo/2005-07-01

 この写真の解説の再掲(記録映像2005年7月1日に掲載しています。)

 世とは世話人のことと思われる。

 その下に名前が刻まれています。

 もっと横に大きな石であったのでしょう。写真向かって左端の名前の刻まれた文字の名前が半分に割れています。

 この石が出て来た附近には、魚市場と浜の井戸、芝の門がありました。

 一、明治年表と村の日記の記載より

 明治18(1885)年5月10日 井戸の修理

 井戸の利用者中地六三軒西地五九軒の住民出て破損を修理し、石材の井桁などもつけて二〇尺もの深い井戸を安全に水汲みできるように整備する。

  当時、下地組五一軒の共用に清水、紺屋井戸の二ヵ所あり。

 江津良三六軒に地蔵井戸、三木井戸の二カ所。

  綱不知は土地が岩盤のため鑿井しても水が出ないのでユガ神社の崖下に土手を築き水を溜めて飲料水として三七軒の生活をささえてきた。

 立ケ谷は谷川をせき止めて一三軒が使用。

  鉛山は浄土川上手の仁右ヱ門井戸と、南支流上手の清兵衛井戸の二カ所で七四軒が用を足した。 参考文献 明治年表より

 大正6(1917)年8月23日 下地組の井戸替え

  下地組四十数軒の飲料水は清水井戸、紺屋井戸のニケ所に頼っているが年一度の井戸替えに組員出る。

 大正10(1921)年8月10日 井戸替え

  旧七月七日で例年のように共同井戸の井戸替え日である。

  下地組は清水井戸と紺屋井戸、中地、西地組は芝井戸と浜の井戸。

  これらの井戸のお世話になっている家々から人々が出て、井戸水を汲み出して井戸側の 水垢をスリ落して底のバラスを新しいものと取替えるなど、終日動労奉仕の汗を流し、榊や清酒を供えて水神さまに感謝する。

 昭和8(1933)年2月5日 水道会社創立

 昭和9(1934)年4月19日 上水道通水開始

 二、町誌本編下巻一の記載

 芝井戸地蔵

 本覚寺門前横の道路に面した石垣のそばにお堂がつくられ、中には真新しい芝井戸地蔵のが祭られている。

 右手は印相に、左手には宝珠を持ち円光背は赤く色鮮やかに彩色されている。

 それまで芝井戸の守りをしていた地蔵さんは、風化著しく石塊状になっていたのを、芝井戸地蔵講の人々が広く浄財をを募り、昭和45(1970)年5月24日にその身代わりととして新しく地蔵尊を刻み安置したものである。

 お堂の奥、右手には、「明治18年酉5月築之」と刻まれた芝井戸の井戸枠がはめ込まれている。

 これは明治18(1885)年5月10日に芝井戸が修復された際刻まれたもので、当時はこの井戸は、中地63軒、西地59軒、計122軒分の支えてきたまさに命の水であった。

 芝井戸地蔵は毎年8月23日に住職のお経と、地蔵講の人々により念仏が唱えられている。


 私記

 上記AとBの石は一枚石の可能性がある。

 この刻字された石は三分割されている可能性が高い。

 理由はまず上記Aの写真に向かって左の文字(氏名と思われる文字)が約半分程度欠けている。そしてBの写真と@の写真に向かって右の縦になっている部分(Aの写真)と高さがほぼ同じと思われる。