千年鑵子(せんねんくわんす)        湯崎 瀬川宅     Photo/2005-07-26

 鉛山(かなやま)鉱山はおそらく永禄の初期から天正の後半(一五五八〜一五八六)のころに発見され採鉱を始めたものであろう。          参考文献 町誌

 千年鑵子説明

 湯崎瀬川力之助氏方に千年鑵子(せんねんくわんす)と伝える古き茶釜あり、古(いにし)へ鉛山(かなやま)にて鉛鉱を掘りしとき大和国より三人の鉱夫来り、此者各一個の鑵子を背負ひて此地に移りしがいつの程にか此鑵子に千年鑵子と唱へ、淡路辺からくる船子など此鑵子に菓子を供へ、茶を喫して帰りしよし。
 此三人の子孫、淡路屋、大和屋、長五の三軒の家を構へ、瀬川方は大和屋と呼べり、長五の家は今亡(な)きよし、鑵子は瀬川方のみ現存し、他の二つは行方知れずとなり。

参考文献紀州田辺湯崎温泉案内 著者 毛利清雅 明治41年5月、昭和6年7月発行

 千年かんす説明

 湯崎の瀬川という家に「千年かんす」という古い「茶がま」が伝えられています。
この「茶がま」は、昔鉛山(かなやま、湯崎から平草原のあたりは、白浜町となる前は鉛山村といっていました。とくに今ゴルフ場になっている附近は、昔から金属の鉛が地下に埋まっていたので掘っていました。)へ、大和国(奈良県)から三人の鉛を掘る男がはるばるやって来ました。

 その三人の男は各々一つの「茶がま」を背に背負って、この鉛山村へ何日も何日もかかって移ってきました。この三つの「茶がま」は何時から言い出したのか知りませんが「千年かんす」と云われるようになりました。淡路島あたりから鉛山にやってくる漁師(昔の鉛山村や瀬戸村は漁業を主な産業としていました。和歌山や瀬戸内海あたりの漁師も魚を釣りに小さな船に乗ってきました。魚とさつまいも、野菜などと土地の人と交換して船の中や民家を借りて一年の内の何日かを鯛釣りなどしてこの土地へ来て生活をしている漁師がありました)達は、この「茶がま」に菓子を添えてお茶を飲んでその年の鉛山での魚とりをおえて自分達の村へ帰りました。

 茶がまのお茶は非常に美味しいものです。

 今は茶道のときに使われています。この「千年かんす」の「茶がま」のお茶は、特別美味しかったようです。このお茶を飲まないと帰れないという漁師もあったそうです。

 この大和国からやってきた三人の子孫は淡路屋、大和屋、長吾という三軒の家の起こりです。その中で瀬川という家は大和屋と呼ばれています。また、長吾という家は、今は滅んでありませんが淡路屋と大和屋は今も湯崎で大きな店を構えて商売をしていますが、「千年かんす」という「茶がま」は大和屋に残っているだけで外の二つはどこへ行ったかわかりません。

参考文献 白浜の伝説(六) 白教研社会科サークル 昭和48年1月1日発行 新聞名は不明


  注一元、上の蓋は、木であった。

 注二、茶がまの中はキラキラと光っていて金であるという。

 注三、火災の時は、家の前の井戸に投入れて守れと言い伝えられているという。

 私、この茶釜については、平成14年頃から大きな鉄鍋と思っていた。

 本年、湯崎の三木元彦先輩に、この話しをして、瀬川氏を紹介していただき、本日、写真撮影、手が震えた。

 この「茶がま」と「瀬戸浦絵図」が町の指定文化財にもなっていないとはね。

 追記 2005-07-27

 参考文献・:白浜の伝説(六)とあり「まぶ湯」と「千年かんす」が記載されています。「千年かんす」の文章はひらがなを漢字に一部修正しています。

 この「千年かんす」は、伝説ではなく実話と思っています。