昭和40年頃、松の木地蔵の松。

 松の木地蔵(峠地蔵)              Photo/2005-10-10
 綱不知と江津良を結ぶ旧道は道幅も狭く雑木の茂る寂しい山道であった。峠には樹齢数百年の松の大木が生い茂り、松の根元のお堂には両手で宝殊を持つ総高39cmの地蔵さんが祭られていたため「松の木地蔵」とも呼ばれていた。この地蔵について語ってくれた故正木かね(享年八一歳)の話によると、正しい地蔵さんの名前は「隠岐国焼火地蔵権現」といい、昔はお堂の前に小さな赤い鳥居があって、小さいとき、「南無阿弥陀仏」と拝むと母親から拍手を打てとしかられたということだった。また願いごとがよくかなうと近辺の人々からの信仰もたいへんあつくお参りする人々も多かったといわれるが、当地から遠い日本海に浮かぶ隠岐島がどうして出てくるのか、焼火とは何かを調べていくうちに、島根県隠岐郡西ノ島町の焼火山(たくひさん)=標高45m=に焼火神社がある。その由緒によると一条天皇のころ、海中から山中に飛び入った火の霊威をかしこみ神とあがめて奉斎したのに始まり、大晦日には毎年変わらず神火が海上から社前の神木に飛来し、それが年中不断の常夜灯となるという信仰により、近世日本海航路の開発(東回り航路・西回り航路)とともに、船人たちにより航海安全を願う船神として信仰されるようになった。殊にこの神は海上において遭難しかかるとき、祈りをこめると必ず神火が現れ、その方向に向かって船を進めると、無事安全な港に着けるという焼火信仰が、山岳信仰と神火信仰と重なって生まれたらしく、そのため焼火山の神を船神として、また地蔵尊として信仰したその一つが綱不知湾の良港にのぞむ地に当地蔵を回船業者の手によりいつしか祭られたのであろう。ほかに「綱不知地蔵(北向き地蔵)」もその縁起により隠岐の国から霊を移したという意味の文章が読み取れ、同一の性格を持った地蔵尊と思われる。
 付記 ほかに隠岐島から勧請した同様の地蔵尊として、日置川町市江の「市江崎地蔵尊」日高郡日高町小浦の「浄土院の地蔵尊」などがあげられる。 参考文献 町誌本篇下巻一


 白浜第一小学校への通学路でもある新墓地に至る道路そばに樹齢数百年の枯死した松の根元の堂内に身の丈約39cmの小さな地蔵さんがお祀りされています。松の木地蔵・峠の地蔵とも呼ばれています。

 江津良と綱不知を結ぶ美之浦の山道の峠に位置していたから、こんな名前が
つけられたのです。

 ところで、この地蔵を知る古老から伝え聞いた話によると、正しい名前は、隠岐国焼火地蔵権現といい、昔は、ほこら前に小さい赤い鳥居がありました。

 小さい時、南無阿弥陀仏と拝むと、柏手を打って拝めと親に叱られたとのことです。
 なぜ、遠い日本海の隠岐島が、出てくるのか。焼火とは何か。を探って行きますと、
 島根県隠岐郡西ノ島町(島前)の焼火山(標高452m)に焼火神社があります。
 この神社のいわれによると、海中から山中に飛び入った火の神を祀り、大晦日には神火が海から社前の神木に飛来、これを常夜灯にしたといわれています。

 このことから、船が遭難しかかったとき、祈りをこめると、海上に神火が現れ、その火に向かって船を進めると、無事港につけると言う焼火信仰が、山岳信仰と、神火信仰と重なって生まれたと思われます。

 近世(江戸時代)日本海航路の開発(東回り航路・西回り航路)とともに、船人たちたより焼火山の神を船神として、また地蔵尊として信仰されたようです。
 綱不知地蔵堂の北向地蔵の縁起にも、隠岐の国から霊を移したと言う意味の
由来が書かれています。同様な性格を持つ地蔵が、他に県内の沿岸部に数カ所
見られます。
 網不知湾奥、背後にそびえ立っていた松の木を介して、地蔵尊に託す船人たちの信仰が伺えます。          参考文献 南紀白浜悠歩道 白浜町役場企画観光課 平成14年3月29日