金徳寺                                                 Photo/2005-10-26

 寺号宗派  金徳寺 浄土真宗本額寺派京都西本顧寺未
 所 在 地 白浜町湯崎二三〇〇番地
 本   尊 阿弥陀如来立像
 来迎寺と同じく元禄十年(一六九七)十一月二十九日夜の大火で全焼したため、開創の年代は明らかではなく、また同寺には寛文二年(一六六二)に始まる過去帳(後年の作製に成る)以外に古文書・記録類が全く伝わらないので、沿革を調べるにはほとんど外部の資料によるほかはない。
 日高郡美浜町三尾の真宗光明寺の寺伝によると、光明寺の開基釈道願は俗姓を三輪氏といい、祖先は大和から播磨に移った。道願の父佐太夫正寛は姫路に生まれ高禄の武士であったが、故あって浪人し、姫路在の高畠に住み、のち湯崎(そのころ鉛山)に来て採鉱の業に従事した。正寛は紀州海部郡の長保権ノ守と懇意であったが、権ノ守の勧めで長子道願を出家させた。道願は権ノ守から贈られた阿弥陀如来の画像を本尊として湯崎に庵を結んで本願寺の末寺とした。時に道願は二〇歳だったいう。
 その後道願は京都へのぼる途中、長保権ノ守を訪ねた。その折三尾から来ていた同家の奉公人が、「三尾は今まで真言宗であったが、このごろでは真言を離れ真宗を信仰する者が多くなって来たので、どうか三尾へ来て教化してほしい。」と言って頼んだ。更にその後権ノ守の斡旋もあり、三尾の信者代表が湯崎へ来て、是非にと釆教を願ったので、道願はついに意を決し、湯崎の草庵や田畑を棄て三尾に移って自庵を創建した。これが現在の光明寺で、時に永禄六年(一五六三)であったという。以上の話によると、金徳寺は永禄六年以前に開創されているわけであるが、道願の寂滅が何年で何歳であったかが分からないので、その年号を逆算することができないのが遺憾である。
 ところで同寺の中興第一世は順恵であるが、同寺の寺号が定められ、本尊の安置が認められたのは順恵の代で、元禄大火の一〇年前の貞享四年(一六八七)七月のことらしい。第三世善改の代に本堂が再建されたが、それは安永五年(一七七六)のことと思われる。寛政十年(一七九八)十月には、蓮如上人三百回忌法要が営まれた。ちなみに現在の車裡は第五世智光の代に、本堂は昭和七年(一九三二)に新築されたものである。

 境内

 夕桜の句碑

 参考 元禄の大火