忠魂碑    熊野三所神社境内                   Photo/2005-11-16

 侍従武官長 陸軍大将奈良武次書

 昭和七年四月建立 帝国在郷軍人会 瀬戸鉛山分会


 参 考

 昭和7年5月5日 忠魂碑除幕式

  かねて懸案の忠魂碑を軍人分会が綱不知道白島堀割の南側台地に建設中竣工。除幕式を挙ぐ。

 昭和11年5月6日 招魂祭

  生憎の雨で忠魂碑前での式典できず、白浜座を借りて執行。聯隊区乾中佐ら臨席される。

 昭和16年5月6日 招魂祭

 忠魂碑前において招魂祭を神式により執行する

 昭和17年5月20日 忠魂碑移転費寄附

  帰還された川口勝中尉軍人分会に対し忠魂碑移転費の一部にと百円を寄附される。忠魂碑現在の位置は適当でないので軍人分会では目下移転先を探索中。白浜新地中松席の豊鶴さんからも五十円の寄付あり。豊鶴さんは以前、飛行機墜落事故で九死に一生を得てその喜 びが感謝となり前線の兵隊さんや白衣の勇士への慰門となって兵隊芸者とまで言われるようになり、丁度今年がその事政から七年目で、「何か記念になることを」と考えてこの寄附となったとか。

 昭和18年10月20日 忠魂碑移転 

  かねてから懸案であった網不知道路掘割の山手にあった忠魂碑を白浜国民学校校庭南隅に移転決定本日その地鎮祭を行う。

  これで招魂碑祭も現地で行える訳である。工事は軍人分会員の勤労奉仕で十一月中に着工の予定。

 昭和18年11月20日 忠魂碑工事終る

  軍人分会員の勤労奉仕でかねて移転建立工事を進めていたが、本日小学校庭南隅の空地に建立竣成。

 昭和19年5月6日 招魂祭

  午後一時より忠魂碑前にて本年度招魂祭を執行。好天に恵まれて児童、白衣勇士、駐屯部隊勇士町民多数参列、なかなかの盛儀であった。

  二時より銃剣術大会、軍人分会と海軍部隊との試合白熱戦を演じ、見物衆の血を沸かす軍人分会二十点、海軍部隊二七点。

夜は招魂祭記念映画会を白浜座において開催。

 昭和20年5月6日 招魂祭

 午前十時より白浜校庭南隅の忠魂碑前で招魂祭を行い、後投餅。

 昭和30年11月27日熊野三所神社境内に移転


 経緯

 昭和六年(一九三一)十二月十四日、村では満州事変の武運長久祈願祭終了後、各団体役員に居残ってもらって宮の社務所で忠魂碑建立について協議した。経費は五〇〇円、その内村が一〇〇円、軍人分会一〇〇円、残り三〇〇円は村内一般から募金、建立主体は軍人分会があたり、各団体が協力することなどを協議した。翌年中国上海で戦争が起こり、忠魂碑の建立にも熱気がこもり、募金も容易に進捗した。
建立の場所は県道綱不知線の白鳥の掘り割りの道路に面した南側山林を南常三郎から無償提供され、整地工事は古田百合蔵組が引き受け、道路面より二メートルの高さまで山林を切り下げ、間口六間奥行三間半的二十坪の敷地を造成した。
 碑の材石は、江戸時代慶安初期に由井正雪が大坂から江戸へ運ぶ途中時化のために日置川口で船が遭難難破したとき川底に埋没したものと伝えられている大きな御影石があり、これを日置の軍人分会の斡旋で縦割り半分に切断した
 面幅九四センチ、高さ三メートル、厚さ七五センチもあるものを譲ってもらい、四月初め岡田延組が運搬を請け負って瀬戸西地井戸市太郎の砂利運搬船で日置川口から綱不知港に運んできて桟橋に揚げ、そこから自島の現場までコロで引っはって造成した敷地に引きあげた。
 碑の下に据える台座石は軍人分会員たちが、下磯のいそぎ谷で厚さ四〇センチ、間口一八〇センチ、奥行一五〇センチもある巨石を発見、これを井戸市丸に積んで綱不知へ運び、コロで敷地まで引きあげた。
 碑の題字は浦漣村長が、昭和四年六月一日天皇陛下行幸に供奉された侍従武官長奈良武次に懇請して揮毫してもらい、これを碑石へ刻むのは川辺弥一郎石匠が担当して毎日現場で鑿をふるい碑表に幅六四センチ、高さ二二六センチの面をとりそこに題字を刻んでいたが四月末に終わり、五月一日玉垣のある台座にいそぎ石の台座石も既に据え付けているその上に碑石の据え付け作業を始めた。碑石が重くて高いのでなかなかの難作業であった。岡田組に軍人分会員も協力して数時間を要して完了した。
 この忠魂碑は、村が発展するに従って自動車や人の交通量が増え、式中は勿論平常でも騒音などのため環境が悪化したので白浜国民学校校庭南隅に移転することになり、昭和十八年十月二十日地鎮祭を行い勤労奉仕で工事を進め十一月二十日に移転建立が完了した。
 さらに、昭和三十年十一月二十七日白浜小学校校庭から熊野三所神社境内に移転。
昭和五十一年十月この忠魂碑の右側に白浜町遺族会、海友会、郷友会が共同で高さ一三〇センチ、横幅二〇〇センチ、厚さ三〇センチの御影石に戦没者一八二柱の名を刻んだ白浜英霊顧彰之碑を建立。