東白浜地区災害記録

 一 宝永4年10月4日津波来襲今より二百五十三年前(詳細なる記録なし)

 二 嘉永七年十一月四日大地震今より百六年前宝永の津波より数えて百四十八年目である。

 此の時は、翌五日の夕方七時頃大津波来襲し終夜二十四五回来潮あり潮高二十尺余り幸にして人畜の被害なかりしも全部落が流失し僅かに土蔵一棟と浄林の森の一割丘上に在りし一戸が残り此の家の仏壇より鮮魚一尾発見されたりと。

 古老の伝説よれば、十一月四日大地震起こり住民は津波の来襲を予想し家財を携(運び)、山上に避難、夜を野宿したるも津波の来襲なく翌五日家財を持ち帰り各自住居に落付きた同日夕刻津波来襲したる為、何一、携行する(運ぶ)暇なく再び山上に避難したる後、家屋全部流出し田畑は素より全村が壊滅したりなりと。

 地震の直後海中鳴動す俗に此れを海鉄砲と云うと記録しあり

ーーー後文略。

 記録の筆書 岩城兵八

注、1尺=10/33m=0.30303 m

注、旧書体や表現は、当用漢字と現在文に修正した。

注、( )は加筆した。

注、私なりに、読みよいように表示した。

綱不知地蔵堂                                              Photo/2005-11-30

西暦 年号

摘    要

1707 宝永 4 10 4 大地震津波。(「岩城氏の墓陰」「万代記」ほか)
宝永地震 M8.4 紀伊半島が震源。死者2万人。土佐では大津波が発生。                                                  ネット検索
1854 (嘉永)

 

安政

(7) (11) (4)

11/4〜5、大地震大津波、湯崎温泉湧出とまる   (安政地震)

正確に書くと、嘉永7年11月4日[1854/12/23(土曜)]です。
安政の改元日が、安政1年11月27日[1855/1/15(月曜)]ですから、地震の23日後に嘉永から安政に変わったんです。ネット検索

12 23

安政東海地震 M8.4 関東から近畿まで大被害。死者数千人。

                              ネット検索

24 安政南海地震 M8.4 32時間後に再び発生。中部から九州にかけて被害大。死者3万人。               ネット検索

 私、11月27日午後2時15分頃、綱不知地蔵堂内で、上の写真撮影し帰宅後タイプ、文字が写真では判別不明がありました。

 その後、地震の記録をネット検索で調査、綱不知地蔵堂内の東白浜地区災害記録が正確に記されていることに驚かされた。

 本日、再度、綱不知地蔵堂にて文字の確認と写真撮影した

 記録の解説は、浅学の私では十分な記述が出来ませんので、お許しいただいてネットで検索したら、ここまで詳しく知ることが出来、古老の伝説が、伝説ではなく実記で正確であったことを思い知らされた。

 情報化社会の情報内容充実の進展に最近富に驚かされています。

 注、昭和の地震などは、町誌に掲載されているので省略した。