池を過ぎると馬目谷に下りる、すると、馬目谷の端から端へ高さ約1m位の土で築いた堤防のようなものが続いている。現在は竹藪となって、その全貌を撮影することは不可能です。

 この横を円月島を見ながら歩いて行くと、登りになり倉の鼻の山頂に出て、瀬戸に行くことが出来る。

 下の写真、向かって右下手前が馬目谷前の海岸です。  上の写真、Photo/2005-03-07

 昭和14(1939)年頃、円月島と臨海道路。この写真には行幸記念博物館蔵 」と印刷されていた。

 将軍吉宗公御成

 元禄15年

 一同十二日主税頭様十一日和歌山御発駕、十一日晩小松原泊り陸通御越被成由大庄屋○々に申來人馬用意、同日南部迄御越、大庄屋半右衛門所へ御入、夫より堺浦ニテ御舟に召瀬戸へ御渡海 後文略。

 一同二十五日主税頭様湯崎御発駕為遊陸御通富田観福寺へ、(中文略)、瀬戸御滞留之内鯨一本上ル、(後文略)

(田辺大帳)                      注、○文字判読不明


下記は私の記述

 南部堺より舟、江津良の浜と思うに着き、江津良より駕で地蔵峠(:現白浜第一小学校の前)を越えて、瀬戸に入り、 瀬戸古道(自称)を通って、桔梗ヶ平にあった別邸(瀬戸御殿)に入ったと思われる。

 瀬戸御殿から鉛山(現湯崎)の崎の湯まで、陸路駕と考えるのが妥当です。

 それは、鉛山(現湯崎)から駕、陸と記され富田観福寺に行かれています。鉛山に駕に乗って行ったと想像される記述です。(注、瀬戸浦絵図には富田に行く道が記載されている。)

 すると

 瀬戸御殿から駕で瀬戸古道(自称)を通り、瀬戸にある旧道を経て白良浜から鉛山のタタラ峠を超えて鉛山へと想像しても不思議ではない。

 滞留2週間の内に鯨が一本捕れた。鯨を食べたのでしょうか。


 将軍吉宗公御成

 元禄16年

 一二月十九日主税頭様江川濱より御渡海御召之船ハ和歌山より(後文略)

 一三月十一日主税頭様瀬戸湯崎御出船、(後文略)

 (田辺大帳)


 下記は私の記述

 一、二月及び一、三月です。約3週間滞在していた。

 どこを通って、どのように瀬戸御殿で滞在されていたかは、記載がないので不明ですが、元禄15年のお成りの時と同じような道を行き来したのでしょう。


 紀州家のお成りは、時代の移りの年表の明治前を参照して下さい。

 特に私の興味のある事柄を記載します。

 初代藩主徳川頼宣公(南龍公)

寛文四年十月瀬戸御成、(前文略)、瀬戸御滞留中御能哥舞妓有、(後文略)

寛文九年三月二十八日大殿様瀬戸へ御成、(中文略)、御滞留中鯨二本揚

 雑賀云。瀬戸とあるは瀬戸の桔梗ヶ平の別邸をさすことは勿論である。

 参考文献 温泉叢書歴史編 雑賀貞次郎著


 松原(現臨海)〜九郎左衛門谷〜御殿谷を経て標高約50mの頂上付近の掘割〜馬目谷と歩きました。

 歴史の古道であることは間違いないでしょうが、私と云う記述は、勝手に想像して記載しました。尚、研究されて、補正されることをお願いします。

 感想は、自然林の中を、景色がよくて、歴史があり、勝手に、その歴史の出来事を想像して歩ける瀬戸古道(自称)です。