第2章 古代の上富田

  三 初期の熊野参詣

 最初の参詣記・いほぬし

 熊野への信仰がいつの時代から始まったか、という問題はなかなか答えの出せない問題で、これが参詣する人々が多く集うようになったのはいつ頃からか、となるとさらに答えはややこしくなる。

 しかしながら少なくとも平安中期、10世紀の頃にはすでに熊野に参詣する人々があって、「法華八講」という仏教儀式が「熊野八講会」の名で彼らを集めていた、ということは確実のようである(戸田芳実「巡礼の道・民衆の旅ー熊野路の風景」)。そしてその儀式を初めてまのあたりに見て、これを記したと思われるのが、熊野参詣の最初と言われる「いほぬし」である(上富田町史、史料編上、古代・中世二七)。

 ただ残念ながら、この筆者とされる増基法師は参詣途上での地名等にはあまり興味がなかったのか、ほとんど記されることが少なく、そのため上富田町域に関する記述も見当たらない。その前後と思われる部分には次のように書かれている。「むろのみなと」といえば、現在の田辺湾になるであろうが、ここで「いとどしく なげかしきよを 神無月 旅の空にも ふる時雨かな」という歌を詠んでいる。次には一足飛びに「御山につく」と書かれているのだが、これは後の参詣記の記述などを参考にすると、滝尻(現中辺路町滝尻)という意味があったようなので、滝尻からの道を進んだことを言っているのだ、と解釈されている。そして「水のみ」(大門王子近辺にあったとされる水飲仮宿所のことか)に泊まって、「万代の 神てふかみに たむけしつ思ひと思ふ ことはなりなん」という歌を詠んでいる。まさに、熊野参詣最初の文学紀行集である。

 藤原為房の参詣

 熊野参詣が盛んになる平安時代末より少し前、院政の始まる直前である永保元年(1081)には、後には白河院政政権においてその首脳の一人となる、藤原為房が熊野参詣をしその記録を残している(上富田町史、史料編上、古代・中世二九)、が、これも記述は非常に簡略なため、三栖(現田辺市三栖)の次が滝尻にとんでいて、上富田町域の地名は見当たらない。

 ところで、この為房の参詣記(自筆らしい記録が京都大学総合博物館に所蔵されてあり、それは付せられている題から「大御記」と呼ばれる)は、一定区間を舟で行っていることが注目される(寺西貞弘「古代における田辺への道程」、「「為房卿記」にみえる熊野詣について」)。一般に、中世以降の熊野参詣は、難行苦楽を重ねることが功徳を積み重ねることになる、という考えから、舟や馬などを利用することは禁じられ、とにかく陸を歩行していくように考えられている。が、このような考えは熊野参詣が流行するようになってからのことで、それ以前はそれほどてもない、ということになるようだ。そういえば、平安時代半ばに熊野参詣をしようとした花山院が、伊勢経由で行きたいと言ったのも、紀伊ルートで行かない理由は「行歩は堪え難い」ということだった、と記録されているし、中世に入ってからの藤原(中御門)宗忠の参詣の際も、帰りに和歌浦(現和歌山市和歌浦)近辺を舟で遊覧しているのは、このなごりではないか、と考えられる。熊野参詣の流儀が、中世に入って天台宗(とくに園城寺派の僧侶)がその指導的役割を果たすようになってから固定化される、といわれていることと、表裏一体の関係にあるようだ。 

 注、いめほし(庵主)と自称する歌人の世捨て人が、京都を10月10日に出発し、紀伊路を経て熊野本宮に参詣、その紀行文が「いぬほし」は増基法師(ぞうきほうし)の作と伝えられる。