第3章 中世前期の上富田

  第一節 院政期の上富田

   熊野参詣と王子社

 白河上皇の参詣

 一般に、熊野参詣が盛んになるのは寛治4年(1090)、白河上皇が僧長円の勧めによって熊野御幸を行ってから、といわれている。もちろんそれまでなも「初期の熊野参詣」として前に述べたように、熊野参詣がなかった訳ではないが、いわゆる政治形態としての院政時代以降、「熊野御幸」での参詣が呼び水となって、皆が熊野へ、という傾向があらわれたのは確かなようだ(玉置善春「中辺路の発生と王子の成立」)。

 この寛治4年の熊野御幸は、後日熊野御幸の嚆矢として喧伝されたばかりでなく、同時代の記録にもそのようすが書かれているものがあり、どのような参詣であったのかが比較的よく分る。たとえば、白河上皇に従って熊野へ参詣した貴族の中には、いわゆる当時「院の近臣」と言われていた人々がこぞって参加していることが分っている。貴族としての地位はそれほど高くないが、天皇の周囲を固めている上級貴族に対して、この院としう新しい政治存在の周囲にいて奉仕する側近グループが形成さけていたのである。

 彼らはとくに地方の国司(受領と表現される)の官職に任じられて、その地方からの財力を背景にして院の周囲に参画している。逆に、上皇も彼らの財力を利用し、とくに寺の建立や仏像造立を請け負わせることによって、当時の政治に参画する、ということで、共通の土台を有することになったいた。そして、この両者が一緒になる形での熊野参詣こそ、この時期の熊野三山の隆盛の基礎になっているのである。

 もちろん、熊野御幸そのものを行うに当たっても、彼らが隨従するだけでなく、さらに多くの人々の奉仕を必要としている。これら必要なものについての経費を負担したのも「院の近臣」であったと考えられている。

 また、当時の文化の最先端であった仏教においても、上皇を支えるような、いわば、「知恵袋」とでもいあべき人々が存在していた。当時は神仏習合といって、神様とは仏様が具体的に形をとってこの世にあらわれたもの、という考えから、神社と仏閣がほとんど同一視され、神社の中に神宮寺、お寺の中にお宮が祀られる、ということが珍しくなかった。その中で、熊野が信仰対象として大きく喧伝されてくる背景に、この上皇を支える仏教界の高僧が見え隠れするのである。寛治4年の御幸について、僧長円の勧め、ということを先に記したが、この人物、長円もその一人と考えられる。が、彼の出身やその素姓はあまり明らかになっていない。

 いっぽう、その長円の弟子と伝えられる増誉なる人物もいる。彼はこの寛治4年の熊野御幸に際して先達という大任を果たし、最初の熊野三山検校職に任ぜられたと伝えられている。

 先に、「当時の文化の最先端であった仏教」と書いたが、当時において、仏教は現在の「文化」の意味にはとどまらない。外からから伝えられる情報が極めて少ない当時の社会にあって、仏教の思想は、当時の社会生活に対して決定的ともいっていい大きな意味を有していた。その中でも、政治中枢として機能しはじめる院政に参画していた高僧らは、恐らく政治思想の分野から社会を動かす存在となつていたであろう。そのことを、よくおさえておかなければならない。