第3章 中世前期の上富田

  第一節 院政期の上富田

   熊野参詣と王子社

 先に述べたような、当時の文化の最先端であった仏教思想から、熊野参詣に対して強く規定する役割を果たした、と、考えられるものに王子社ある。

 王子社そのものの役割を熊野参詣においてどう考えるか、ということについては、諸説があって一定していない、恐らくは、数々の要素が重なって、この王子社への参詣という信仰形態が成立したのであろう。そのことを。「様々なきっかけを元に各王子社が成立しているのだから、これをひとまとめにして王子社の性格、として規定しようとしても、あまり意味がない」と表現する識者もいるほどである。

 しかし、「梁塵秘抄」などに見られる王子社についての表現を見ると、当時の人々がどのように王子社を認識していたか、ということについては、窺い知ることができる。例えば、「神の家の小公達は、八幡の若宮、熊野若王子子守御前、比叡には山王十禅師、賀茂には片岡貴船の大明神」という歌がある。一つの神社・仏閣についてその「小公達」、つまり跡継ぎとなる幼君の位置を想定し、熊野においてはそれは若王子・子守御前になる、というものである。

 「熊野十二所権現」という言い方で表現される、熊野の神様の一つ一つを分けてその後継者として各地に勧請したものが王子社、という説明になるであろうか(戸田芳実「院政期熊野詣とその周辺)。

 なお、「九十九王子」という表現がなされるようになるのは比較的時代があとになってからで、それまでは参詣の沿道に祠が造られ、またその消長も激しかった、と考えている(寺西貞弘「古代における田辺への道程・「為房御記」にみえる熊野詣について)。

 那智叢書 第七巻 九十九王子巡拝記

 熊野九十九王子

 熊野権現十二社の中に「若一王子」と申し上げて天照大神が祀ってある。これは本社権現の伊弉諾、伊弉冊二神の御子神ゆえに「王子」と申すと共に、神仏習合の上から仏語の「童子」にたいする神道の言葉として用いたものである。

 熊野九十九王子は、大阪より熊野に出る道中に散在する神社で、熊野御幸の際上皇、法皇方の御参拝、御休憩、御宿泊になった社で、その地名、或は鎮座の由来、地理的関係より起った名前を冠して何々王子と称したものである。九十九とは必ずしも数にかかわるものでなく、「九十幾つという沢山の」という意味のものである。

 五体王子

 王子の中には特に地位の高いものを五つ選んで五体王子と称している。五体王子のほか幾つかの王子社で、奉幣の外に誦経、相撲、舞、歌会等の催しもあった。大体において九十九王子は参拝奉幣している。

 熊野九十九王子の名前

 名前の冠し方は神社名でその土地の名、或は祭神名にゆかりの名。地理的関係たとえば山の入口、出口等で馬を留めて休憩した所、或は山の中央、入口峠、麓なとに関する名。由緒としては鎮座している所の本社との関係、御神徳に関する由来なとによるもの等がある。