熊瀬川の小祠

 熊瀬川に残る宝篋印塔の一部

 上から二番目の写真(白黒)の上の丸い石とその下の四角い石が残る宝篋印塔の一部と思われる。

  熊瀬川王子
 小広峠を下ってすぐ熊瀬川を渡り、この谷川から草鞋(わらじ)峠への古道へ踏み入れたところに子安地蔵があり、少し行くと宝匪印塔の一部の残る墓地がある。この付近に以前は茶屋があり、そこを通って草鞋峠へ登って行く熊瀬坂の左側小平地に小さな祠が見られ、かなり大きな杉などの切り株も残っている。古老の話によれば、ここが熊瀬川王子の旧社地だという。
 もとはこの付近に住む人たちの氏神として祀られていたものらしい。今の小祠は、戦後ここの木を伐った人がたまたま崇をうけたということで、神意を鎮めるために建てたものである。
 ところで、京都仁和寺所蔵の熊野縁起″の道中王子次第に、熊背川王子の名があり、それがここだろうということになる。しかし、簡単にそう断定していいものかどうか。というのは熊瀬川王子の名は熊野練起以外の記録には見えないし、一般には王子間の距艶はだいたい二キロから三キロぐらいであるのに、小広王子からここまでは一キロにも満たないのである。しかも、建仁元年御幸記では、中ノ河の次が岩神になっていて、小広王子も熊瀬川王子もみえないのであるから、この両王子の存在を認めるならば、いずれも設立が比較的新しいことになるし、小広峠とそれを下ったばかりのところに、近接して設けるもっともな理由がありそうにない。そこで、熊瀬川王子は小広王子を指すのではないかという疑いが出てくるのである。
 熊瀬川はもともと小広峠の山から流れる谷川であって、地名としては草鞋峠の登り口の茶屋や宮のあったあたりを指すだけでなく、小広峠付近をも含めた一帯をいうのである。これは元文四(1739)年の熊野めぐり″にはっきり書かれているし、紀伊続風土記では「小名熊瀬河は小広峠にあり」としているほどである。こうしてみると、小広王子と熊瀬川王子が同一の可能性もあるといえるだろう。