女夫(めおと)坂
小広峠からの国道は、熊瀬川とその下流の四村川に沿うて平井郷・大瀬を通り、湯ノ峰・本宮へと通じるのであるが、これは明治以後開かれたもので、以前は岩神峠を越え、道湯川を経由して伏拝から本宮へ行くのが熊野道で、古くはこれが御幸道であった。
この古道は、小広峠を下ってすぐ熊瀬川を渡り、熊瀬坂を登る。途中に江戸時代の一里塚の遺構が見られ、和歌山から二十八里の地点にあたる。坂を登ったところが草鞋峠で、そこから下って行って谷底になった栃ノ河を渡り、更に今度は岩神峠へと登って行く。天仁二年の藤原宗忠の日記には「小平緒、次大平緒、次都千の谷、次石上之多介」とあり、大平緒を別にすれば、都千の谷は栃ノ河、石上之多介は岩神峠で、現在の地名と符合する。
このあたりは熊野道のなかでも有名な険路で、しかも樹木が生い茂っていて、山蛭が落ちてくるので蛭降峠百八丁などと言われたところである。この険難の道を、古く藤原宗忠は未明のうちに辿り、建仁元年の御幸では、先陣の藤原定家は夜中に越して道湯川まで行ったのであって、道中が険しく夜行の不安だったことを書きとめている。
ところで、草鞍峠から岩神峠までのこの難所の坂道は、いつしか女夫坂と呼ばれるようになった。二つの峠の並び立っているさまを夫婦のめ関係に見立て、草鞋峠の下りを女(め)坂、岩神峠へ上りを男(お)坂、両方を合わせて女夫坂というのである。更に、その中間にある栃ノ河の茶店は仲人茶屋と名づけられていて、江戸後期ここを通った文人などの注意をひいた。
伊達千広は明治三年、往復ともこの女夫坂を通っているが、その紀行文「三(みつ)の山踏」は、おそらくここを通った最後の記録で、その後はこの道の通行は全く絶えていた。道湯川への道は、笠塔峯の肩の新岩神峠を越すように改められたからである。 |