上記二枚が胎内くぐり     Photo/2005-03-23

上記2枚が乳岩    Photo/2005-03-23

  胎内くぐり、乳岩、秀衡桜(ひでひらさくら)
 奥州平泉の藤原秀衡は四〇歳を過ぎ子供に恵まれないので、熊野権現へ17日の参籠(さんろう)をして願をかけた。その願はかなえられて妻はみごもり、月日は流れて七カ月となった。
 熊野権現のあらたかな霊験で懐妊したので、そのお礼詣りにと、妻とともに熊野へ旅立ち永の旅路を重ね、ようやく滝尻に着き、ここの王子社に参詣したところ、未だ臨月に達しない内に産気を催し、ふしぎにも五大王子が現われて「この山上に胎内くぐりとて大きな岩屋がある汝只今いそぎそこで産されよ、その子はそこに預けて熊野へ参詣せよ」とのお告げがあった。
 そこで岩屋で子供を生み、そのまま寝かせておき熊野へと急いだ。(この子が後の泉三郎忠衝である)途中、野中で手折りにした桜の杖を地にさし「参詣の帰り途この杖に花が咲いていたら無事なり」と立願して本宮へと急ぎ、熊野大権現を拝礼し、すぐ下向して野中に着き、行くときさした桜の杖を見ると、花はいきいさとして香り盛んであった。さてはわが子も無事であろうと滝尻の岩屋へと急いで見ると、子供は一匹のおおかみに守られ、岩から白くしたたる乳を飲んでいて、丸々とこえていた。これこそ神のお救い、何とかしてご恩に報じたいものと、後に七堂伽藍(がらん)を造営して諸経や武具を堂中に納めた。
 これを秀衡堂とも七堂伽藍ともいったが、天正の兵乱にこわされて、今では記録さえも残っていない。秀衡はその伽藍の維持修繕費のために、黄金を壷に入れて近くに埋めたと伝えられている。
 なお、この岩屋は乳岩と呼ばれ、深さ六m、横四mぐらいあり、腹ばいでくぐり抜けることができ、乳の少ない婦人がまいるとご利益があるというので、今に参拝人がたえず、布製の乳型が入口につるされている。
ま た秀衡がきしたという桜は野中の秀衡桜、一名継桜といわれ、今のは二代目か三代目らしいが、かたわらに「奥州秀衡二代の桜」と刻まれた石柱がたっている。
 桜の下の句碑「鴬や御幸の輿もゆるめけん虚子」は往年ホトトギスの中堅作家で有名だった当時の紀伊新報社長、小山邦松氏が建てられたものである。
 この桜はどうしたものか、普通のものより数日遅れて咲き初めるが、毎春変わることなくその妍(けん)をほこり、道ゆく人々を楽しませている。
 滝尻王子権現は、往古は非常に栄えて、熊野詣をする歴代の法皇、上皇がこのうえもなく尊崇し、ご参詣の際はいつもご滞在なさって歌会などの催しがあった所である。
参考文献 熊野中辺路刊行会 昭和47年3月1日発行