南遊志に出でたる紀州の人々と南遊志 |
南遊志に出でたる紀州の人々 伊勢の儒斉藤拙堂(慶応元年没、年六十九)は万延元年(1860)64歳の春、(文略)門人などと紀州に遊び記行「南遊志」記述がある。 (文略) 思うに南遊志の記述は熊野の山水を語るものには、今後も尚を長く引用される文字のひとつであろう。 ところで、南遊志に記される紀州の人々ー拙堂一行を送迎し歓待した人々を知ることは、当時の紀州のそうした方面を知る一つの資料であるが、寡聞の故でもあろうが、まだそれを説明したものが見当たらぬ。若し南遊志に頭注、脚注を加えるならば故事熟語の出典や地名などの外に、これらの人々のことも説明してくれたら思うのは、強く私一人の希望のみではなかろう。 (後文略) 参考文献、椿の葉巻 著者雑賀貞次郎 昭和13年5月19日発行 南遊志(南紀白浜のみ抽出した。) 万延元年(1860)3月23日 朝、雨、田辺 (略) 午飯於旅店、雨晴欲往湯崎、 (略)主人謂陸行山徑崎嶇三里、舟行海上直徑僅一里余、(略) 古歌所云風莫浜、(略) 白良浜、(略) 不半里達湯崎、(略) 還宿里正某氏、(略) 24日、早発上高瀬山 (後文略) 注、里正某氏は森三太夫、現旅館湯崎館 |