文化十五戌寅年三月
十五日 晴天。スサミ立、辰の刻。三里の峠を越え、安宅村と云ふに下る。然る所当所より(田辺)大辺路街道本道なれど、当時疱瘡流行の為め、旅人通ることならず。因て浜通りと云ふに行く。此方は道悪く遠し。然し拠なく行く。日置と云ふに行き一宿。亀右衛門と云ふ宅。
十六日 晴天。日置村立、辰の刻。又峠を越え浜へ出て、夕方シソサイと云ふに下り、喜之助と云ふに宿す。
十七日 晴天。シソサイ村立、辰の刻。又峠を越え、富田村と云ふに出づ。此所は伊勢より八鬼山、熊野大へチ等山中八、九十里の間の山中を通り抜けて平原の地也。当地六右衛門と云ふに宿す。
十八日 晴天。滞在。洗濯する(下略)。
十九日 晴天。滞在。木綿二反調へ、紺屋へ染めに遣はす。大川あり。川向ふ中村と云ふに托鉢に行く。托鉢先にて馳走の所二軒あり。
二十月 晴天。無事。
廿一日 晴天。染物出来ざる故、今日も滞在す。今日は弘法大師正御影供也とて茶漬等出したり。大師の像の上に讃あり、読めざる故読誦し聞かせよと云ふに付誦す。
廿二日 染物出来に付、近所の老女共三人集り菩提の為めとて仕立呉れられたり。是も回国の一得也。困て一句、前あり略す。
吾れ一と器量の花の針揃へ
赤飯茶漬け等出る。六右衛門と云ふより豆腐、義衛門と云ふより草履、清八と云ふより鼻紙贈らる。
廿三日 晴天。富田村立、辰の下刻。田辺往還を除け北山道を通り、保野村為助と云ふに宿す。
廿四日 晴天。ホノ村立、辰の刻。富田川と云ふ川上へ上る。一の瀬と云ふ相和助と云ふに宿す。
編者いう。
『日本九峰修行日記』は日向佐土原藩の修験者野田成亮(一七五六〜一八三五)の著で、以上は筆六巻の一部を抄出したものである。本文中の保野(ホノ)村は保呂村をさしていることは明白であり、また富田村とはおそらく高瀬村であろう。
ところでシソサイ村とはどこだろうか。これは難問に属するが、前後の記事から推測して朝来帰村に該当するものと解釈される。念のため同村(現白浜町椿)普門寺の過去帳
をひもとくと、文化三年(一八〇六)五月に朝来帰村の本村朝来帰地区の喜之助の父と思われる人物が、文政四年(一八二一)六月にはかれの母が没しており、遺憾ながらずばり本文中の喜之助に該当する人物は同寺過去帳に記載はないから確認はできないが、文化一五年(一八一八)当時朝来帰地区に喜之助なる人物がいたことは多分事実であろう。
また奇しくも同村の枝郷見草地区においても当時同名の喜之助なる人物がいたものとみえ(この本人もまた同寺過去帳に記載がない)、文化一四年(一八一七)六月にかれの母が、文政五年(一八二二)一一月にかれの娘が死亡しており、このような観点よりしてもシソサイ村は朝来帰村であると断言しても一向差し支えないように思う。しかし野田成亮が何故朝来帰村をシソサイ村と誤記したのか、これは永遠の謎であろう。
参考文献 町誌 |