城跡は「紀伊続風土記」に「上段東西十一間 南北五間、下段東西七間 南北四間」と記録されている。実際は三段から成っている。記録されていていない曲輪は、上段(本丸)の西方下にある。東西約27メートル、南北の最長幅が11メートルの平地で、西側に土塁が築かれている。この曲輪の存在で、本丸部分は隠れ、容易に本丸に達することはできない。本丸跡の東下に東西約12メートル、南北約13メートルの下段(二之曲輪)があって、幅3メートルの空堀が本丸、二之曲輪の屋根を遮断している。